アオマツブログ

青松輝(あおまつ・あきら)。短歌・批評など。Twitter:ベテラン中学生、YouTube:ベテランち。

みじかい短歌原論

 

※2021年夏、23歳のときに書いた文章です。iPhoneを整理していたら出てきました。

 

 みじかい短歌原論を書こうと思う。いま僕が作者として書こうとする短歌がどのようなものか、端的にまとめたものだ。

 「良い短歌」を短いことばで定義づけようとするのは危険なことだが、歌人として高いレベルの作品を多く作っていくなら、何らかの方法意識が(意識的であれ、無意識的であれ)必要なのは明らかだろう。自分に今ある方法論(のようなもの)を、すぐに忘れてしまいそうだからここに残しておく。


①読者

 作品は読者のために書かれる。作者のために書かれた作品を僕は信用しない。

 たしかに、僕の創作と、それにまつわる時間は、自分の人生を救ってくれている。だが、それは作品の良し悪しとはまったく関係がない。

 作品はあくまで徹底的に他者に向かって書かれる。僕と作品との関係は、あくまで僕の中の問題であって、僕の作品が果たすべき役割は、世界の方にしかない。


②マッサージ

 マッサージのような作品は書かれる必要がない。短歌のそれに限らず、作者というのは読者のツボを押そうとする生き物で、短歌にも〈ツボ〉のような何かがあり、それは歴史的に生成・継承され続けいる。

 そして、そのような共同体の内部での欲望の発露と充足のサイクルは、自分には気持ち悪いものだと思える。正解不正解の話ではなく、生理的な話として。そして、だからこそ、自分は短歌という狭いジャンルでの表現をわざわざ選んでいるのかもしれない、とも思う。

 いずれにせよ、まだ読者の知らないツボを押せる作品以外は書かれる必要がない。その新たなツボも、時代とともに古びていくのだとしても。


③圧力

 短歌の定型は、ある種の同調圧力だと考える。自分は定型を、作者や読者が回帰してゆくべき神聖なもの、としては捉えてこなかった。

 短歌の読者や作者が、短歌定型というものの強固さに救いを見出すことができる、という事実はもちろん認める。だからといって、どうしてもいつも短歌の定型を守りたいとは自分には思えない。

 とにかく詩は、あらゆる同調圧力や不自由に永遠に抵抗し続けるものでなければならない。

 

④僕

 歴史的に短歌は一人称の文学とされ、その大きな積み重ねのなかで、新たなかたちで、一人称的に何かを書くことは非常に難しい。だからこそ、正面からその課題に向き合う必要がある。

 たとえば、歌のなかに一人称が登場していながらその一人称性にバグを起こすような短歌が、〈僕〉によって書かれる。

 短歌が〈僕〉を記述するのではなく、記述された短歌に沿って、〈僕〉自身があとから動く。つまり僕は短歌を通して〈僕〉を改造してゆく。

 

⑤裏切り

 書いてきたとおり、〈ツボ〉や〈定型〉、〈一人称性〉に代表されるような〈一個のもの〉、あるいは共同体、を裏切るような短歌、というのがこれまでの自分の作歌のライトモチーフだった。

 語彙のレベルでは、つねに〈良い短歌〉的ではないモチーフ、あるいは過剰なほど〈良い短歌〉的すぎるモチーフが探され続けてきた。一首の構造の上でも、短歌というゲームのルールを裏切るような一首を作ることがつねに念頭におかれてきた。

 しかし、その「裏切り」すら、共同体を温存するために要求された、ある種の共犯者であるということを忘れるべきではない。

 

⑥直接性と抒情

 短歌の言葉の中に、作者にすらコントロール不能な、ある種の物質性をもったことばが出現し、そこを起点にして読者の世界も切りひらかれていく。それが僕にとっての詩だった。

 そして、今は単に、世界に起こっていることを記述し抒情するだけでは、あまり意味がない気がしている。

 抒情を抒情するような作品、そのようなものを書かなければならない。

 僕の抒情が世界を作り変える。抒情が抒情を生み出す。愛が愛を生み出す。自分が抒情してしまうことを僕は抒情する。世界が世界を書き換え続けるように。だから僕はどこへでも行けるし、僕を起点にして世界が裏返ることだってありうる。

 

⑦痛み

歌は痛み、痛みこそは歌。

 

(了)

所感20こ(2023)

 

▶️ PLAY

 

相変わらず何もしていない。なにかを作っても、作ったそばから消えていってるような感じがする。

僕は点数が必要ならなにをしてでも取るタイプで、死ぬほど勉強したこともあるし、カンニングをしたこともあるし、過去問をぜんぶ暗記していったこともある。だから、僕の言葉はいつも祝福されている。僕は祝福されるような言葉しか発さない。そのことをものすごくくだらないと思う。

星は、夜に光るから好きだ。

さいきん「けいおん!」にハマっていて、アニメを一話から順番に観ている。もともと可愛い女の子が出てくるアニメをほとんど観てこなかったのだが、「けいおん!」の女の子たちは、僕に可愛がられるためでなく、彼女たち自身のために存在しているから、安心して観れる。

やばい 止まれない 止まらない
昼に夜に朝にsinging so loud
好きなことしてるだけだよ Girls Go Maniac
- 放課後ティータイムGO! GO! MANIAC

あくまでも「Girls」が「Maniac」でいるためにこの曲が作られていることが、すごくうれしい。

夏に歌集(短歌の本)を出した。なんでも切れる剣をつくりたいと思って、5年かけてやっと本が出せた。でも、今のところ、僕の剣が世界を切り裂いているようには見えない。

短歌の本が大して売れないので、こうなったら小説を書いて芥川賞でもとるしかないか、と思っていろいろ練習してみてるんだけど、ぜんぜん書くことがなくて進まない。自分以外の人間について真剣に興味を持ったことがないので、自分ではないキャラクターが書けない。短歌は、自分が興味ある狭い範囲のことだけ書いてればよかった。小説も、登場人物が自分だけでいいなら書けると思うけど。

これまで、自分は他人を笑わせるのが好きなんだ、と思って生きてきたけど、最近になってようやく、本当はそうじゃないんだな、と気付いた。他人が笑ってても、大して嬉しくない。他人が笑っていないと不安だからそうしてるだけだ。

女の子は男の子に比べて自分を大人っぽく見せるのが上手い。でも、俺からは見えてないだけで、ほんとはちゃんと幼い部分がどっかにあるはずで、知らない若い男が、知らない若い女のことを「自分より大人で…」みたいな言い方で褒めてたり、自分から見て、誰か女の子が、年齢の割に大人っぽく見えてたりするときに、なんか切なくなる。でも別に、俺に切なくなる権利はない。

こういうこと書いてインターネットに載せなくても楽しくやっていける人生だったらいいのにな。何を書いてるんだ、ずっと。

最近ネットで読んだ、志磨遼平(ドレスコーズ)の昔のインタビューで、志磨が「ロックンロール」がジャンルでしかないことに絶望している、という話をしていた。

僕は本当にロックンロールは完全無欠なものだと本当に信じていたんですよ。だけど、あまりそうではないらしいと。やはり人間の限界にはロックンロールにはいかないわけですよ。やはり、生理現象ではなくて、文化、嗜みなんですよね。明日死ぬような人が曲を書かないわけですから。それを僕は生命維持装置のように大騒ぎしていた。じゃあ、諦めた男が何をまだ居残っているのかと言うと、ロックンロールはただの音楽なんですよ。音楽の一つのジャンル。皆、ロックンロールにいろんな意味を持たせるじゃないですか。「それ、めっちゃロックンロールしてるやん」みたいな動詞的に使われたりするじゃないですか。だけど、あくまで一つのジャンルでしかなくて、それ以上でもそれ以下でもない。
- 志磨遼平

この「ロックンロール」を、お望みのことばに入れ替えれば、そのまま僕とかみんなの人生の話になる。ほとんどの人生は、ジャンルと心中することを強いられている。

この前Twitterで、俺のツイートに引用RTでお怒りを表明してるやつがいて、なんだこいつ、絡んでくんなよ、と思って、そいつのツイートを見にいったら、フォロワーが10人くらいのアカウントで、NARUTOの終盤のストーリー展開にも怒ってたの、なんか悲しくて忘れられない。

愛はかならず最後に勝つだろう
- スピッツ「正夢」

愛は最後に勝つとして、そのとき負けるのは僕たち自身だと思う。

浴びるほどの金と名誉がほしい。本当に。

歌集を出してから、インタビューでメンタルヘルスの話について訊かれることが何度かあった。自分がそれについてなにか話す権利があるのか、といつも思うけど、作品についての話だから逃げるわけにもいかない。toeの「グッドバイ」という曲にこういう歌詞がある。

There is no one can understand me truly.
I do not go out and I will keep silence.
Everyone is mania in general.
You don't have time to sleep.
For to know others.
- toe「グッドバイ」

「Everyone is mania in general」という部分は日本語では「躁鬱がデフォルトで」と訳す、という話をどこかで見た。「Mania」って「躁鬱」って意味で使えるのか。躁鬱はデフォルト。それで、どうしよう。

将棋で、自分の玉が、次の相手の番ではどうやっても詰まされない形のことを「ゼット」というらしい。絶対に詰まない、の頭文字をとって、Z、ゼット。かっこいい。

ここまで読んで、みなさんはどう思われますか?

せっかく生きてるからには、希望とか永遠がほしいけど、希望とか永遠はどこにも見つからないから、今、なんとなく楽しいと思っているいくつかのことを、希望とか永遠だと勘違いして、とりあえず日々をやり過ごしてみる。

星は。

だが、文学の本質とは、いっさいの本質的限定を、文学を安定させそればかりかそれを現実化するようないっさいの確率作用をのがれ去る点にある。
- モーリス・ブランショ『来るべき書物』

僕はずっと、なにかから逃げるために、文章を書いたり、勉強をしたり、誰かと話したりしてきた。僕が逃げるためにしてきたことが、いま僕を生きさせている。それを喜んでいいのかどうか、今はまだよくわからない。

もっと音楽のボリュームを大きくしないと、他人の気持ち悪いことばが入ってきて、頭がおかしくなるよ。

 

⏸️ PAUSE

ブンサイ!選評②

またしても遅くなってすみません。僕が選評を書くのが遅かったせいでさらに遅れてしまいました。選考はとても大変でした。関係者の皆さんにはご迷惑をおかけして申し訳なかったです。アットマーク以下は各応募者のTwitterアカウントです。

 

【最優秀賞】

好きだからつみたてNISAやめてほしい本当のことは川の中だから
(@mamibidden)

 「つみたてNISA」を「やめてほしい」とはどういうことだろうか。「つみたてNISA」は、国がやっている謎の制度で、使えば得をする、ということだけは皆なんとなく分かっている。そしておそらく同時に、うっすら皆が気持ち悪いとも感じている。「ふるさと納税」や「マイナンバーカード」なんかもそうだろう。

 上から降りてきて、使っておけば良いらしい、という制度だけがもっている怖さ。「好きだから」それを「やめてほしい」というのは勝手だが、「好き」な人にもその感覚を共有してほしい、という感情はよくわかる。

 下句「本当のことは川の中だから」の8−8の字余りも、その願いの強度を高めているように思った。たしかに「川の中」にはつみたてNISAはない。そしてこの歌では、「やめてほしい」と言ってしまう自分自身のことも相対化するような構えが、「川の中」が持っている、泥っぽく汚いニュアンスから見えてきている。それらのすべてが本当だと思った。

 

【優秀賞】

明日からも指輪つけたり外したりどの退屈も生者の権利
(@naaaaagi_31)

 他人の話を聞いていて退屈になったとき、たしかに指輪をつけたり外したりすることがある。あるいは結婚指輪なのかもしれない。指輪をつけたり外したりする動作はすごく単調で、退屈さを予感させる上では秀逸だ。

 そこから急に、抽象的な下句が出てくる。その切れ味がすばらしいと思って選んだ。「どの退屈も生者の権利」というフレーズはキャッチーだが、読みとるのは難しい。退屈な生の、その退屈を権利として楽しもう、という希望にも、この退屈すら味わうことのない死者、に対する失意にも、読むことができる。

 しかしやはり「つけたり外したり」というリズムからは、「指輪」の持っている、軽くて即物的なニュアンスが響いてくる。この歌はなにか制度のようなものに添いながら同時に反発もしている。それでこそ短歌だと思う。

 

【佳作】
車窓から見える雰囲気いい街の家にもきっとDV彼氏
(@rmn_glas)

 「DV彼氏」という言葉の短さと多重性に感心して採った。「車窓から見える雰囲気いい街」の中に、それと相反するような何か、を見つけるという考え方じたいは、短歌を書こうとする人にとってそこまで難しい発想ではないと思う。その上で、「DV彼氏」を選択できる、作者の容赦のなさに信頼を置きたいと思った。実際、どの街にもある程度の人数、DV彼氏はいるだろう。そしてそのDV彼氏にも、いい彼氏としての側面があるだろう。そのことはとてもリアルでしかも重い。


帰省で空っぽになった道、まるで自由な草原。確かめるように生きて何もわからず死んでいく。みんな原始時代みたいだね。 どっかで仕入れた朝焼けの原理、毎朝少し期待してる。誰かが笑えば、遠くで小鳥が泣いてる。みんな小さな神様みたいだね。 不屈の動物は美しい。抽象の絵画は美しい。全部誰かが説いたアナグラム。結局みんなして一括に生きてる。秩序のあしおとみたいだね。
(@lilan__upto)

この選考では短歌以外のものもひとつ佳作に入れることが望まれており、たくさんの作品の中から苦労して選んだ。自分の不勉強で選考は難しかったが、この作品を入れた。「秩序のあしおとみたいだね。」という一節は本当だと思ったからだ。


算段が散弾になり冗談になるから雪がパリになるから
(@springizumi78)

この応募者はTwitterアカウントが消えていて、選考の対象外だったのだが、この歌のことをどうしても書きたいと思ったので佳作に入れた。算段が散弾になる、というのはおかしい。散弾が冗談になる、というのもおかしい。雪がパリになる、というのはもっとおかしい。でも僕には、これまでに自分が目にしてきた、算段と、散弾と、冗談が、たしかにこの歌に書かれているように思ったし、下句を読んだ瞬間に、雪のなかのパリを(なぜか)想像してしまった。ことばを書くこと、そのポテンシャルは、この想像であり、作者はその想像を、読者に全力で強要することにためらいがない。あなたの頭の中を今よぎったこの「パリ」は本当だと思う、僕は本当のことしか読みたくも書きたくもなかった。

「ブンサイ!」選評

 

遅くなってすみません。僕が選評を書くのが遅かったせいで遅れてしまいました。アットマーク以下は各応募者のTwitterアカウントです。

 

【最優秀賞】

神様が帰ったあとのガラス戸が少し開いてる、甘いんだよな
(須藤摂 @_sudO_Osamu_)

 この一首が、今回応募された作品のなかでもっとも印象に残った。得体のしれない青春性を感じた、といえばいいだろうか。

 友達と遊んだあとのような作中主体のテンションと、じっさい書かれている「神様が自分のところに来て、帰っていった」という奇妙な場面設定のあいだのズレが、「甘いんだよな」という口調のもつ雰囲気を最大限に引き出している。「ガラス戸」という道具立ても、古い民家のような湿ったイメージをどこか喚起する。

 「神様」が来て、帰ったあとも平静を保っているように見える主体。にもかかわらず、その態度にはどこかセクシーなニュアンスさえ含まれている。主体と「神様」はそこで何をしていたのか、どのような関係が生まれていたのか。そのようなことを考えるときすでに、われわれは少しずつ歌の世界に取りこまれている、甘いんだよな。

 

【優秀賞】

今朝君は生きていたんだトーストの設定がまた5に戻ってる
(ふゆ @IN___2317)

 この一首に、今回応募された作品のなかでもっとも新鮮さを感じた。つまり、簡単な意味内容を書いていて、文体もフラットなこの短歌に、読み込むべき情報量が非常にある、という手触りに驚いたということだ。

 掲出歌のような、誰かの生活の痕跡に、他者と自分の違いを感じる、という内容の短歌は多く存在しているが、この歌は「トーストの設定」という特殊な言い方と「5」という具体的な数値の提示によって、意味のレベルだけにとどまらない、テクスチャーレベルでの情報量が付帯させられている。

 ごくシンプルな話だが、オーブンのあのダイヤルを「トーストの設定」と言い換えられるということは、非常に正しく短歌的な技術ではないか。

 

 

【佳作】

一面の(わたしはいったいなにをどこでまちがえただろう)菜の花
(君村類 @kmmr_r09 )

 山村暮鳥の有名な詩(『風景』)が想起されるが、パーレンの中に書かれた感傷は、近代詩的な自然のイメージを裏切っている。この歌で「菜の花」は実景としての効力をもはやもたず、単なる喩でしかないが、その喩が喩として正面から書かれていることに、この「菜の花」の鮮やかさがある。


嘘じゃなくフィクションだって分かるひとだけがわたしの作画を愛でて
(小石川なつ海 @7snooze)

 意味を読みとるならメイクの話なのだろうか。主体の要求が「嘘ではないと思ってほしい」「フィクションではあると分かってほしい」「その上で作画を愛でて」と色々な方向性を兼ねているところに、短歌には珍しい複雑さがあって面白かった。


一羽ずつ雪道に鳩を置きながらマジシャンをやめてゆく人影
(からすまぁ @inari_karasuma)

 上句の説明的な場面設定が、下句の句またがりの鮮やかさでうまく回収されている。回収されたとして、「そんなやついないだろ」というツッコミは頭の中に残るのだが、それも「雪道」と「人影」の存在感を強くしている。

 

 

妻はガルシア=マルケスの大ファンで、ある日大きな容器と大量の『百年の孤独』を買ってきた。「どうするの?」と聞くと、飼育し、共食いさせ、生き残った最高の『百年の孤独』を愛でるそうだ。数日後、帰宅すると、妻が肥大した一冊の本に喰い荒らされていた。以降百年、僕はその本と孤独に暮らした。

(サトウ・レン @RS_hon)

 短歌以外の作品について自分が選考する側として何を言っていいのかわからないが、数ある応募作のなかで、この作品は既視感のある設定から一歩先へ踏み込んでいる感じがした。「以降百年、」という部分があきらかに嘘であるとわかるところにこの作者の誠実さがあると思う。

 

LOVES/POEMS

 

LOVES

詩はすでに、ひどく傷めつけられている。そのすべてが、僕のせいだとしたら?

複数的なポエジーの可能性のことを信じようとしていた。わたしたちは初めから複数として生まれた、それだけが理由になった。だけど、イージーな孤独の気分は、それらをすぐに単数的なものに纏めてゆく。街が光に犯されている。単数的な光に。

さみしさは単数的で、恋は単数的で、欲望は単数的だ。悲しさも寂しさも、すべてひとつの球体に纏まっていく。ほら、すでに、僕たちの生活はひとつの画面で完結しているじゃない? まとめられていく僕たちの言葉、顔、スーパーチャット、意識すべてが、似通っていく。

はやくきみの言葉で世界を台無しにしてくれ/きみのとがった舌で/食事に口をつけて/暗視の植物を植えて/目隠しを/して/血の出てしまったところを/舌でおおいかくして/狩猟本能にみちた/幼児性にみちた/台無しにさせてくれ/僕の舌で/僕の言葉で

あなた自身がひとりでいることは複数的であり、僕自身もまた複数的でありうる。ひとりであることが複数的になる、僕たち自身が望むならそれは、マッチングアプリの中の運命。FATE、HEART、♡。

 


POEMS

きみはすでに、ひどく傷つけられている。それらのどれひとつとして、僕のせいではないとしたら?

雪のなかを鳥たちは飛び去る、白い雪が縦に、黒い影が横に。それはシステム化された雪のポエジー。花を月明かりが照らす、カメラを接近させれば、花粉はきらめく。それはシステム化された花のポエジー

あたしはお前のことを全部知りたい。僕のなかの金髪の女の子が囁く。完璧な詩などといったものは存在しない。完璧な詩が存在しないようにね。僕のなかの政治家がマイクで絶叫する。それはそう、その通り、複数性について。

わたしたちは今日/豪華な食事とプレゼントでわたしたち自身を祝う/それは/システム化された/運命の/ポエジー/わたしたちはいつも、夜をことばに置き換える/それは終わることのない/エクセルの/作業/感情を数値に起こして/お金をもらっている/僕たち

あくまで僕たちは違っている。完璧な愛は存在しない。そのどうしようもなさ自体がどうしようもなくて、花のシステムと雪のシステムがズレていくことの不可能のなかに、僕たちのすべての喜びが降誕する。愛は存在しない、そのこと自体を愛と呼ぶことができる、あくまで、それを望むならだけれど。☺︎

 

 

(2021年の夏に書いた詩です。青松輝)

所感20こ(2022)

 

▶️ PLAY


相変わらず何もしてないし、相変わらずキャパオーバーしてる。でも、さいきんは結構いろんなことに慣れちゃってる感じがあってつまんない。

詩に限らず、作品と名のつくものは全部ウソだから好きだ。俺は作品を通してしか、本当の意味では他者と関わることができないと思う。

Twitterにも書いたけど、同い年くらいの女の子が、どんどん「ちゃんとした男」と付き合いはじめてる。もっと20歳くらいのときに天才ぶって、同い年くらいの子たちに遊んでもらえばよかったかな。留年とかする前のぴかぴかした時期に。

誰のことも、ほんとは好きじゃないのかなって思うことがけっこうある。

わがうたにわれの紋章いまだあらずたそがれのごとくかなしみきたる
-葛原妙子「橙黄」

去年の「所感20こ」で、この短歌を引用してたけど、いま振り返るとパフォーマンスっぽかったかな。そんなことない、大丈夫だと思う。

天使。雲が割れて、早朝の青い空から降りてくる。地表のあたりは汚いから、天使がいるところだけがうすく光っている。そのとき僕は中学生で、それから今まで何度も、僕もそんな風になりたいと思ったんだけど、やり方がわからなかった、きれいでいるやり方が。

SNSに文章を載せて、ある程度いいねとかRTされるのってめっちゃむずくて、たぶん感情的なことを書いた方がいいんですよね。俺のふだんの文章もそういうものが多いけど、なんか、書いてるんじゃなくて書かされてるんだな、って思ったりする。すべては「お気持ち表明」。他人のことばに「お気持ち」のラベルを貼るのも、お前の「お気持ち」だろうが。

「atarashiisekai」という名前の店を作ります。とくに名前以外で決まってることはなくて、とりあえず、atarashiisekai (@atara_shiisekai) / Twitterだけは作ったので、フォローしてみてください。古着と古本を扱いたいなと思っています。

生きてて世の中にある事象って、俺目線で、とても得意なこと 9%、ふつうなこと 6%、苦手なこと 85%、くらいの構成になってる気がする。

夜、眠れない。スマホをいじるのがやめられない。

Shooting a shower. Scary invisible shadow.
天使は寂しそうだね
Smile over kind in my story.
街の上に正論が渦を巻いてる。
-中村佳穂「忘れっぽい天使」

いま24歳で、来年25歳。なんか「24」って一周した感じがある。1日って24時間だし。干支とかも12年で1セットだし。25歳になって「アラサー」って言ってるやつは全員つまんないと思う。僕が「アラサー」って言ってたら殺してください。

ファンにも家族にも友人にも結構な頻度で「最終的にどうなりたいんですか?」みたいなことを聞かれるけど、それが分かったらこんな風に生きてないし、こんな文章も書いてないんだよな。ただし、お前がなってほしい俺にも、なってほしくない俺にも、なるつもりはないということだけは、確かだと思う。

小さい頃のことを思い出して「あのときの1日って長かったよな」って懐かしんでる人はいっぱいいるけど、誰も「いまこの1日がどうしたら長く感じられるか」って話をしてない。いま、今日を長く感じるためになにをするか、考えた方がいいんじゃないかな。僕は、歩いたりして移動したりしたら長く感じる気がします(小並感)。

夏に祖父が死んだんだけど、そのときの葬式に、従姉妹の子ども(2歳くらい)が二人来ていて、死ぬほど可愛くて頭がどうにかなりそうだった。言い方として微妙な気がするけど、マジで「光」にみえた。俺は本気で反出生主義者になれるほど、強くもなければ、絶望もできていないんだな、と思う。たぶん、別れを経験すればするほど、小さい子どもが輝いてみえるんだろう。幼児は別れを知らない。

自分はがんばってると思う。ていうか、もっとがんばれるみたいなのは幻想。いまある自分が、がんばった結果の自分。

俺に憧れて、俺みたいな短歌書いてる人を最近ときどき見るけど、俺にはなれないからやめといた方がいいよ。短歌を書くのをやめろって意味じゃなくて、それは死ぬ気で続けて欲しいんだけど、お前が自分で見つけた書きたいことを書いてほしい。それを読ませてくれ。

飛行機はめちゃくちゃ怖い。最近はましになったけど、けっこう乗るたびに軽いパニックみたいになってる時期もあった。落ちたら確定で死ぬのやばすぎる。

天使はしかし、ぼくが別れてこざるをえなかったすべてのものに、人間たち、とりわけ物たちに、似かよってゆく。ぼくの手にもはやない物たちのなかに、かれは住まう。かれは物たちを透明にする。

-ヴァルター・ベンヤミン『アゲシラウス・サンタンデル』

なんか、最後の方に詩的なこと書いて終わってばっかりなんだよなぁ、俺の文章。そういうやつの方がやっぱり、みんな好きだしなー。じっさい俺も好きだし。「みんな」とか言っちゃってんの、気持ち悪いなぁ。色んなことが、上手くいくといいけど。

どうかな。


⏸ PAUSE

 

去年書いたバージョンはこちら↓

所感20こ - アオマツブログ

I Hear You -木下龍也と〈神〉の問題

 

 

 2022年の10月に発売された木下龍也の第三歌集「オールアラウンドユー」には、〈神〉のモチーフが登場する短歌がいくつもおさめられています。

詩の神に所在を問えばねむそうに答える All around you
じんるいでさいごのひとりになったらかみさまとおはなしができます
神さまを殺してぼくの神さまにどうかあなたがなってください
捨てられた車が神の役割を果たす子猫と雪を隔てて
-木下龍也「オールアラウンドユー」

 収録歌数が123首であることを考えれば、これだけの頻度で〈神〉が出てくる歌集は珍しいでしょう。彼はこの歌集で〈神〉について思考しているようです。

 木下はことし(2022年)、全国放送のテレビのドキュメンタリー番組に取り上げられました。僕もリアルタイムで放送を見ていましたが、そこで僕が驚いたのは、創作のために苦しみ、読者から救いを求められ、必死で短歌を書く木下の姿が、人でありながら〈神〉のように描かれていたことでした。

 たしかに、木下龍也はいま、短歌の世界で、もっとも〈神〉に近い書き手のひとりだといえるでしょう。単純に、影響力があり、読者を動かせるという意味においてです。

f:id:vetechu:20221015031139p:image

木下の歌を読もうとして「手が震えちゃう」という読者。

 〈神〉の問題は、短歌のことを考えるうえで、ずっと僕にとって重要な位置を占めています。たしかに、誰かのために何かを書くひとを〈神〉のように感じるのは自然なことでしょう。そのひとは、読者自身も気付かなかった、読者の欲しいことばを予め知っていて、先回りしてそれを与えます。しかし、われわれは何の権利があって、他人を〈神〉に仕立て上げるのでしょうか。答えは出ないままです。

† 

 読者からすれば〈神〉のようにも見える木下自身は、〈神〉というモチーフをどのようにとらえているのでしょう。

 本稿では、木下龍也の短歌を中心に、短歌あるいは創作における〈神〉はどこにいるのか、われわれはどのようにそれと向き合うのか、考えてみます。私的な見方や過剰な言い方もあるので、割り引いて読んでください。

 

 

 さて、この〈神〉の問題について、歌人・木下龍也は以前から自覚的であったように見えます。

 2016年に出版された木下龍也の第二歌集「きみを嫌いな奴はクズだよ」にも、〈神〉をモチーフとした短歌は登場します。まず、歌集タイトルに採られた歌がそうです。

あとがきにぼくを嫌いな奴はクズだよと書き足すイエス・キリスト
-木下龍也「きみを嫌いな奴はクズだよ」

 (「イエス・キリスト」は実際には〈神〉とはすこし異なりますが)ここで木下は、短歌のなかに〈神≒イエス〉を創造し、神のことばを創造しています。

 「ぼくを嫌いな奴はクズだよ/きみを嫌いな奴はクズだよ」。このような(追いつめられた人間の強がりにもみえる)強いことばを、木下は〈神〉に代わって読者に与え、読者を救おうとします。

 「きみを嫌いな奴はクズだよ」と書いたのは木下龍也ですが、「ぼくを嫌いな奴はクズだよ」という言葉を放つのは〈神≒イエス〉です。このとき、〈神〉と〈神〉について語る〈作者〉は、重なってみえます。この揺らぎと重なりは意図的に作られ、この歌じたいが、歌人・木下龍也に対する無限の自己言及になっている、と読めるかもしれません。

 では、〈神〉のような人間というのは、どのような人間のことでしょうか。たとえば、誰かの欲しい言葉がわかって、それを与えられる人物は、〈神〉のように見えるかもしれません。

立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ
-「きみを嫌いなやつはクズだよ」

 この歌が魅力的で、読者を惹きつけることがわかるからこそ、僕はこの歌が嫌いですが、この歌でも〈主体〉は〈神〉に限りなく近づいているようにみえます。

 〈君が背負っているもの〉を〈君ごと背負う〉ことを本気で試みた人物こそ、そのようなことが不可能であると痛みをもって認識しているはずです。あるいは、この歌は、嘘であることを知りながら嘘をついている強さにこそ魅力があり、それこそが〈神〉の慈悲なのかもしれません。

 個人としての意見を書いてよければ、作者がそのような〈神〉としてのパフォーマンスを行うのは、やはり嘘なのではないか、と僕は思います。しかし、反発しなければならない何かを感じさせるのも、この歌の〈神〉のようなスタンスであり、求心力だといってよいでしょう。

 つねに作者、あるいは主体は、作品の中で意図的かつ簡単に〈神〉と混同させられうるし、そのような戦略は非常に効果的なのです。

 いずれにせよ、第二歌集での木下龍也は、みずからを神に重ねるほどの強い自意識を武器として、作品世界をつくってきたように見えます。

 それは、みずからを「天才」と呼び、つねにマーケティングと一体の戦略をとる木下の一種のパフォーマンスでもあり、そのような立場をとらざるをえない孤独と向き合うための、ある種の誠実さでもあるように見えました。

 

 

 このような詩人の自己認識は、木下に特有のものではありません。あるいは、なにかを制作する、という孤独な行為の果てに、そのようなヴィジョンが待っているのでしょうか。

 短歌以外のジャンルでも、作者がみずからを神に重ねる姿勢が選択されることはあります。ラッパーのカニエ・ウェストは、自身の愛称「Yeezy」と神「Jesus」を組み合わせて、『Yeezus』というタイトルのアルバムを2013年にリリースしています。その中には「I am a God」という曲も収録されています。

Get the Porsche out the damn garage
I am a god
-Kanye West「I Am a God」

 直訳すると「ポルシェをガレージから出せ、俺が神だ」という感じでしょうか。そんなことはないだろ、と思ってしまいますが、カニエはこれを本気で言っているはずです。

 〈神〉を発明したのが人間であり、聖書を書いたのも人間である以上、ラッパーや詩人が自分のことを〈神〉に重ねるのは、それほど不自然ではありません。何かを書くものは、〈神〉にいちばん近いところにいる、というわけです。聖書を書いていた人たちは、ラッパーになっても詩人になっても成功したでしょう。カニエはその後、「サンデーサービス」という礼拝のイベントを始めたり、「福音主義者」とよばれる、より保守的なグループの影響をうけた活動に移行して、「Yeezus」と名乗っていた時期のことを否定するようなキャリアを辿ります。)

 また、先行世代の作家であり、木下が短歌を始めるきっかけだという穂村弘の作品にも、〈神〉あるいはキリスト教にまつわるモチーフはよく登場します。

五月 神父のあやまちはシャンプーと思って掌にとったリンス
編んだ服着せられた犬に祝福を 雪の聖夜を転がるふたり
-穂村弘「シンジケート」

ハイウェイの玉突き事故の配色が虹で巡査もほほえむ真昼
-木下龍也「きみを嫌いな奴はクズだよ」 

 木下のある種の歌群は、名詞のシャープな操作や、モチーフの鮮やかさにおいて穂村弘の影響を感じさせます。

 しかし、穂村の初期作品では、これらキリスト教的なモチーフは、穂村の享楽的な作風の中で、操作を行うために登場させられた素材、という印象があります。これは木下の歌が、直接的に〈神〉を題材にしているのとは異なります。

赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書
-穂村弘「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」

 穂村の歌では、聖夜や聖書のモチーフは、あくまでも若者たちや恋人たちのキラキラした感覚を象徴しています。もちろん、それが単なる消費社会の肯定ではなく、もっとラディカルな反権力・反権威性をそなえていることには注意しなければなりません。

「神は死んだニーチェも死んだ髭をとったサンタクロースはパパだったんだ」
-穂村弘「ドライ ドライ アイス」

 木下龍也の短歌における〈神〉の問題は、「神は死んだ」ことを認識し、享楽しおわった世界で、穂村から一歩進んで「では誰が神の代わりをするのか?」というわれわれに与えられた課題を反映しているようにも見えます。

 

 

 このようにして、詩人は〈神〉に近づいてきました。

神様は君を選んで殺さない君を選んで生かしもしない
-木下龍也「きみを嫌いなやつはクズだよ」

 まちがいなくこの時期の木下は、〈神〉に代わって世界を語ることができた。この歌に救われる読者が多くいるのはまちがいないでしょう。

 しかし、問題は、神に代わって言葉を発すれば、救われる人がいるのと同じように、傷つく人がいる、ということです。

 これは私見ですが、おそらく〈神≒詩人〉という企図は、この2022年には作者自身のなかで挫折をむかえています。これは、第三歌集における木下の〈神〉の扱いを見れば明らかです。

 具体的な原因や理由は、われわれには知りようがありません。〈神〉でいつづけることは、それほど簡単ではない、ということなのでしょう。

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 第三歌集での木下は〈神〉の問題に対する向き合い方を転回させたように見えます。たとえば、第三歌集の表題歌になった、この歌ではどうでしょう。

詩の神に所在を問えばねむそうに答える All around you
-「オールアラウンドユー」

 この歌で〈主体≒わたし〉は、詩の〈神〉を外部に求め、それを探しています。〈わたし〉は〈神〉とはほど遠い存在として描かれています。第二歌集での木下なら、もしかすると、自分こそが詩の神だ、と皮肉をこめて嘯いてみせたのではないでしょうか。

 しかし、〈主体〉が〈神〉でないとするなら、〈神〉はどこにいるのでしょう。僕の意見では、〈神〉を代替するのは短歌の定型です。この短歌において、〈神〉は〈主体≒わたし〉の側ではなく、むしろ短歌/定型の側に設定されている。

 「オールアラウンドユー」とは、あらゆるところに〈神〉は存在する、という意味ですが、われわれ、短歌の作者/読者にとって、あらゆるところに存在するのは「定型」という5・7・5・7・7のフレームにほかなりません。「どこにでもいる」という、判断の停止を短歌のなかで行うことは、そのまま定型の信仰へ結びついてゆきます。

 

 

 実は、この〈定型≒神〉という感覚も、けっして不自然なものではありません。短歌の書き手のあいだでは、短歌あるいは文学の〈神〉のような存在に作品を捧げる、というヴィジョンは脈々と受け継がれてきました。

 そして僕は、この〈定型≒神〉というヴィジョンは、木下龍也においては「あなたのための短歌」というプロジェクトを通過して出てきたものではないか、と考えています。

 「あなたのための短歌」とは、木下が2017年から取り組んでいる、読者からの「お題」を受けて、それに応じた短歌を木下が便箋に書いて返送する、という有料のサービスです。2021年にはその過程で制作された700首の短歌のうち100首をまとめた書籍「あなたのための短歌集」が出版されました。

 それまでの木下の短歌の多くは、ある意味で、ひじょうに独我的なものでした。初期の歌集に見られた「アイデア一発で切る」ような短歌自体が、「短歌の作者≒世界の創造者」といった図式を強くします。しかし、「あなたのための短歌集」に収録されている木下の作品は、作品に依頼文が併記され、これまでの歌とはまったく響きが異なっていました。

依頼者:お題は「たこ焼き」です。夫と付き合ってから食べるようになった思い入れのある食べ物です。
恋人はノアの手つきでうつくしいたこ焼きだけを舟皿に盛る

-木下龍也「あなたのための短歌集」048

 この歌では、作者ははもはや〈傲慢な神〉ではなく、短歌の定型と読者の欲望を媒介する天使のように振る舞っています。作者はあくまでも読者と定型のために奉仕しており、読者の欲望を先取り、支配する〈神〉の姿はそこにはありません。

 木下龍也は、「あなたのための短歌」において、ある意味で危険な賭けに出たといえます。それは、自らの持っているプロフェッショナルな技術を他者のために捧げ、〈神〉を〈わたし〉ではないところ、たとえば〈定型〉や〈読者〉の方に設定するための試みでした。

依頼者が不安や悩みを依頼文として言葉にできた時点で、僕がつくる短歌は50%完成していると思うんですね。残りの50%を僕が感情や技術で完成させているだけなんです。
-木下龍也「短歌は感情の記憶装置」

 支配する存在から、される存在へ。このような転回は、一歩まちがえれば、作者としてのアイデンティティを脅かしかねないでしょう。自らを〈神〉に重ねるほど強い意志をもって作品を書いていた人物が、自らの技術をすべて使っていち読者の欲望を満たすような短歌を作るのです。

 あるいはこのような方向を突き詰めていけば、短歌を作る行為じたいを、ファシズム的なものとして捉えることもできるかもしれません。大衆が求める〈うた〉を情緒的に奏でる者だけが、独裁者になれるのです。たとえばこうして。

お題:国家に携わる仕事をしています。天皇の治世を肯定してくれる短歌をお願いします。
君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔の生すまで
-よみ人知らず

 こうして、定型と他者は重ねられ、〈神〉が現れます。そのための供物として、〈歌〉はよく働くことができます。定型という〈神〉と、そのための供物としての〈歌〉。それらを扇動するのが〈わたし〉です。

神さまを殺してぼくの神さまにどうかあなたがなってください
-「オールアラウンドユー」

 しかし、このようなリスキーなプロセスを経たからこそ、木下龍也は第三歌集を書くことができました。「オールアラウンドユー」に収められた歌群は、なにかを失ったあとの透明感で覆われたような、新たな手触りを備えています。

 この〈神〉の問題は、僕が過去になんども繰り返し書いてきた、SNSを統治する〈AI≒神〉の問題や、短歌や詩の〈歴史〉の問題ともつながっているように思います。

短歌が今でも続いているのは、短歌という“魔物”みたいなのがいて、それぞれの時代で自分を作ってくれそうな人に自分を作らせながら生きながらえているからだと思うんです。選ばれた人は作っていくしかない。僕は穂村さんの歌集を通して短歌に救われて、選ばれたんだと勝手に思っています。
-木下龍也『クイック・ジャパン』vol.158

 上のような木下の発言は、〈魔物〉を〈神〉におきかえれば、ここまで書いてきたことと完璧に重なります。

 つまり〈歴史〉は〈神〉であり、われわれは〈神〉のために供物を作り続ける、ということです。このような姿勢は、短歌の作者や読者に安心を与えてくれます。

 しかし、どうでしょう。「オールアラウンドユー」の具体的な短歌の良し悪しは別として、上で語られているような認識には、僕は反対です。〈神〉も〈歴史〉も、単にフィクションなのではないでしょうか。我々に起こっていることは、人間が作品を作り、それが人間に読まれる、というシンプルな関係だけです。

 当然、書いたものが人を救うことも、傷つけることもあるでしょう。それらの責任を負うのは書き手と読み手であって、〈神〉でも〈魔物〉でもないのです。

 ですから、ここでも僕は、〈あなた〉や〈短歌〉を〈神〉のように扱うのも、やはり間違っている、と言わざるをえません。

 

 

 おそらく昔から、すぐれた若い詩人たちは、たったひとりで自らを〈神〉に近づけようとしてきたのではないでしょうか。もちろんそれは、作品を通して行われます。

 〈わたし-神〉は、すべての作品を統御し、読者を救い、傷つけ、支配する。もちろんそのように孤独な道のりは、詩人自身を追いつめました。

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 そして、詩人は次に、誰か自分ではない〈あなた〉という〈神〉のために作品を書こうとするかもしれません。

かなしみの森をあなたのろうそくの火で台無しにしてほしかった
-「オールアラウンドユー」

 しかし、どちらにせよ同じことなのです。

 〈わたし〉を〈神〉を近づけようとする動きも、〈あなた〉を〈神〉に重ねる動きも、短歌定型(あるいは他者)との関係が共依存的であるという意味で、表裏一体であるといえます。〈わたし〉と〈あなた〉のどちらが〈神〉になっても、ふたりはlove-hateの関係性にある。

じんるいでさいごのひとりになったらかみさまとおはなしができます
-「オールアラウンドユー」

 かぎりなく孤独なところまで降りていって、最後のひとりになったとき、〈わたし〉が〈おはなしをする〉のは、わたし自身なのか、それとも定型なのか。

 〈わたし〉が作品を書くとき、あるいは〈わたし〉が、自分だけの生を生きているとき、かならず、ふかい孤独と向き合うことになります。そのとき、誰を信じればよいでしょうか。自分自身という神か、それとも、あなたという神か。

 僕は、そのどちらも選ぶ必要はない、と考えています。何度も言うように、〈わたし〉を神にするのも、〈あなた〉を神にするのも、単にまちがっているのです。

 青山ブックセンターで買ったサイン入りの「オールアラウンドユー」には、サインに添えて、直筆のこの短歌が書き込まれていました。

捨てられた車が神の役割を果たす子猫と雪を隔てて
-「オールアラウンドユー」

 この歌は、われわれが向かうべき方向を示しているように思えます。本稿で扱った〈神〉の短歌のなかで、僕はこの歌がもっとも好きです。

 雪が降っていて、捨てられた車がある。その車のおかげで、子猫は雪の寒さから逃れることができている。子猫は車の下にいるのでしょうか。この歌で重要なのは、神の役割を果たすのが「捨てられた」車であることです。

 今ここでだけ、捨てられた車は「神の役割」を果たす。車がそのまま〈神〉なのではなく、この瞬間は子猫にとって〈神〉である車も、誰かにとってゴミだったから、いま捨てられている。世界とはそのようなものだったのではないでしょうか。

 それを詩人は、ただ書きとめて、この歌の中でだけ〈神〉に近づけばよい。ここでは〈詩人〉も神の代弁者ではなく、雪の日をただ経験するひとりです。誰も、ひとりで神と戦う必要はない。

 〈定型〉と〈作者〉、〈神〉は二人もいらない。そうかもしれません。しかし、その一瞬一瞬で、その〈神〉の矛盾と衝突を引き受けるのが、わたしであり、そのとき〈わたし〉は〈神〉になるのではなく、今ここでだけ〈神〉の役割を果たす。それが続くかぎり、その瞬間にだけ、短歌は書かれるでしょう。

邦題になるとき消えたTHEのような何かがぼくの日々に足りない
-木下龍也「玄関の覗き穴から射してくる光のように生まれたはずだ」

 まぎれもなく、木下龍也の作品の中で最もすぐれている短歌の一つですが、この歌で、読者の前に〈神〉が姿を見せるのは、〈THE〉が消えるその一瞬だけです。だから、この歌は僕を惹きつけるのだと思います。〈神〉は〈役割を果たす〉だけで、どこにも存在しない。

 詩人は〈神〉ではないし、歴史も〈神〉ではない。もっといえば、詩人も歴史も存在しません。稲川方人の言葉を借りれば、〈詩はキャリアではない〉からです。ここには、人間しかいない。

 僕は今だけ、あなたが何を言っているのかわかる。あなたは今だけ、僕の声が聴こえる。神はこの部屋のどこにもいない。

 ここには初めから、僕とあなたしかいない。

 

 2022.10.15 青松輝

 

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