アオマツブログ

青松輝(あおまつ・あきら)。短歌・批評など。Twitter:ベテラン中学生、YouTube:ベテランち。

【歌論】瀬戸夏子・水泳・わたくし

 

 

☐☐☐

 

短歌は水泳のようだと思う。


短歌は水泳のようだと思う。我々は水の中ではうまく動けない。水圧がかかって、空気の中よりも身体が強く縛られるから。だからこそわざわざ水の中へ入っていって、少しだけ浮かぶ部分で息継ぎをして、できるだけ速く、できるだけ遠くまでその縛りから逃げようとする。

短歌は水泳のようだと思う。我々は日々言葉を使うことにちゃくちゃくと、ちゃくちゃくとストレスを感じる。だからそれに対抗するために定型というバリケードを張り、(敗北を決定づけられた?)言葉そのものの不自由さとの戦いに挑む。わざわざ水の中へ入っていって、少しだけ水に浮かぶ部分で息継ぎをして、できるだけ速く、できるだけ遠くまでその縛りから逃げようとする。

短歌は水泳のようだと思う。水泳は、自分に向いていなければやめればいい。21世紀には船がある。地上に水はない。短歌は、というか言葉を生成するのはそうはいかない。言葉というものの重さを一度感じ始めると、捨てるのはそう簡単ではないから困る。一度世の中の言葉たちが、コミュニケーションが、自分たちを縛る水面が見え始めたらもう遅い。言葉からは逃げられない。居心地が悪い。たくさんの短歌たちも、そんな水圧を増すだけの敵に見える。居心地が悪い。ここで戦っているのは自分だけかと感じる。息継ぎをしたい。できるだけ速く。

 

☐☐☐

 

瀬戸夏子は居心地が悪そうだ。

 

瀬戸夏子は居心地が悪そうだ。彼女の短歌は、「短歌」に居心地の悪さを感じるたくさんの人間の助け舟になっているように見える。彼女はたくさんの短歌批判を手元に引き受ける。『現実のクリストファー・ロビン』をパラパラめくるだけで、「奴隷の韻律」「中上健次の短歌批判」「天皇制」「ヒエラルキー」………。読んでいるだけで居心地が悪い。

 

瀬戸夏子は居心地が悪そうだ。居心地が悪くなりやすい奴はどこに行っても同じような感じになるのかもしれない。瀬戸夏子は「短歌じゃなくてもよくないですか?」と聞かれて「手紙魔まみ」に出会ってしまったから…という旨を語ったことがあるらしい(第一歌集の栞文に書いてあるんだったかな?)けど、経験上、けっきょくは何かジャンル特有の空気、フォーマットなど、に対してどれくらい身を預けられるか、というのは人格ごとにある程度どのジャンルでも同じな気もする。少なくとも自分に限って言えば、学校であろうが短歌であろうがインターネットであろうがなんとなく居心地が悪い事には変わりない。

 

瀬戸夏子は居心地が悪そうだ。それはたぶん彼女が「女性」であること、居心地の悪さを背負わされ続けた立場(少なくとも僕が思うに瀬戸にとって)をrepresentしていることと切っても切れないのだろう。が、本稿ではできるだけジェンダー的な視点に論を回収させることに禁欲的になろうと思う。これは感覚的に、ジェンダーの話を今この2019年4月に持ち出して短歌を批評すること、は、僕にとって楽をすることのように思えるから。

 

☐☐☐

 

なんだか批評「っぽい」導入で気持ち悪かったかもしれませんが、以下普段の文体で喋ります。ドイツ語は今期は週二回あるので2留しないようにがんばっています。短歌の総合誌とかから評論の話来ないかなあ。ブログでこれを継続的にやっていくのは精神力が求められすぎる。

 

 

☐☐☐

 

理解できないタイプの瀬戸夏子批判

 

瀬戸夏子の歌、とか、もしくはそれに限らず「トガってる」とされる表現を嫌う人ってキレ気味になりがちだと思う。この現象がよくわからなくて、だいたい「こういうのがカッコいいんでしょ?みたいな、パフォーマンス臭いトガりかたが気持ち悪い」的なことを言うイメージがあるんやけど作者本人が文学的な生き残りをかけてやってることに対して、われわれ読者のなんとなくの感想で「カッコつけてるんじゃないの、キモいなぁ」みたいな感じで切り捨てれることにすごい不思議な感じがする。

 

美術とかお笑いでも、特殊な事やってる人に「適当にやってるくせに「センスあるでしょ?」みたいな感じでイキってるのがキモい」ってポイする人いるけど、よくそんな感じでいれるなと思う。カフェに座ってダラダラ読書してる程度のわれわれの気持ちで、人生かけてる一冊の本にそんなこと言っていいの?その人がどういうことを意図して作ったか、くらいは本気で読み取りに行ってもいいんじゃないの?そりゃ気持ちが入ってたってクソはクソですよ。でも作者は「この作品で認めてもらえなかったら自分の作品は消えていくなあ」っていう怖さと格闘してるわけだからそんな簡単に…と思ってしまう。

 

みんな別に、水泳みたいに短歌やってるんじゃないかもな。なんか気付いたら自分だけ水圧に飲み込まれていたみたいな気がしてくる。そういえば別にもともと「短歌息苦しい…」って思うために短歌始めたわけじゃないもんな。言葉の居心地の悪さをどうにかするために短歌をやってるわけじゃないのか。そうかもしれない。

 

個人的には、先鋭的ぽいけどあんまよくわからない表現の方が、安心して読めるそこそこの作品より下手すればありがたい。自分の見えなかったものが見える方が安心できる。でもこの安心だって安心ポルノ的かもしれない、と思うけど、昔から繰り返されてきたふつうVSトガってるの観念的な争いの焼き直しにすぎなさそうなのでもう喋らない。

 

でも、「居心地が悪いから「それっぽく」ない作品を作ってる人」を認めてあげられない居心地のよさげな人、っていうのは社会でもありそうな構図で悲しくなる。もっと読者が迎えに行ってあげてもいい気がするけど。

 

あとよく言われることだけど、「瀬戸夏子の歌は共感を拒む」みたいな言説。歌論をちゃんと読むことってなくて(疲れるから)、記憶も定かじゃないけどそういう瀬戸受容の流れは強いと思う。このあいだの瀬戸×穂村トークで「瀬戸さんの歌はわからないことに誇りを持っているわからない歌だよね」と言われた、と瀬戸が言っていた。

 

最近たまたま「ひとまる」という同人誌で自分の歌に評を書いてもらう機会があって、似たようなことを言われてて「そうか~」という感じになった。

temae-miso 3月 | tanka-hitomaru

 

けど、その後同人誌の相方の鈴木さんが(僕が頼んだわけじゃないのに!)そんなことないよ、みたいなこと書いてくれて、これはびっくりした。

評論(1) 青松輝は「分からない」か? 鈴木えて - 短歌同人「ポストシェアハウス」

 

どっちの読み方が正しいとかいうのは無粋だと思うし皆それぞれの受け取り方が正解なのは当たり前だけど、わかってほしいから書くんじゃないの?僕は瀬戸夏子じゃないから、たぶんの話でしかないけど、わかってほしいからわかりにくく書くんじゃないの?

 

自分としては、最終的にこれぐらい分かりにくい方がわかったときに嬉しいんじゃないの、みたいな、むしろ共感というものを信じてるからこそ安易な共感アイテムみたいなものに頼ってはいけない、みたいな思考が働いて作ることが多いからそう思ってしまう……なんというか、クラスの異端を気取ってナンバーガールを聴いてたけどそれは別に世の中的に異端ではないな、と気付いた時のあの感じ、を避けたいというか……

 

まあここまでは本題ではない、瀬戸夏子批判に対する批判、です。

 

☐☐☐


瀬戸夏子の歌の志向とは……?

 


瀬戸夏子の第一歌集(私家版)「そのなかに心臓をつくって住みなさい」は持ってないんですが、手にいれる方法も特にないのでとりあえず「かわいい海とかわいくない海 end.」をメインに話そうと思います。評として片手落ちなのは明らかですが手に入らないので。誰か貸してください。また第一歌集が手に入ってなんか思うことがあれば言います。

 

瀬戸の作品について言えるのは「短歌的な所与の形式、もしくは叙情と格闘してる」ということだと思う。早稲田短歌のインタビューでの「穂村弘的な歌しか作れなかった時期を越えて、短歌という形式との距離の取り方を探るようになった」という話があって、こういうことなんだろうな、という。

 

(不思議なのは、僕なんかは大森静佳や服部真里子の読者としても、短歌に対する否定から入らなさ、というか、短歌の歴史を信じてる具合がよくわからなくて乗れないけど、瀬戸夏子はすごい絶賛するところで、そういう、露悪的には「短歌短歌した」歌を褒めながらああいう歌が作れるのはすごい。)

 

(まあそれはそれとして、そういう歌の作りを「わからない」の一言で片付ける人って、(実はもういないのかもしれないけど)「短歌とはこういうもんだ」の押し付けに頭をやられてるんじゃないか、と思ってしまう、短歌って57577の定型というフォーマットが自由度としてちょうどいいのが売りだと思うからそこにどんどん「こういうもんだ」の制限をかけていくことは短歌という形式の可能性に対して暴力的なんじゃないかという気がする……)

 

☐☐☐

 

具体的に読んでみる

 

じゃあ具体的にどう読めば良いか、というのを僕の認識で話していけば、瀬戸夏子の歌は言葉それぞれが持ってる意味とか形/音のニュアンスの連鎖、が、全体としてのセンテンスとしての意味に比べて前に出てきている。前景化されている……

 

たとえば

 

誘惑を好むたちなら夕焼けを好むたちならよくよく阻んだその傀儡を
(「かわいい海とかわいくない海 end.」)

 

なら

①「誘惑を好むたちなら」で一瞬現れる、そういう性質(たち)の人の影
②「夕焼けを好むたちなら」で、もうひとつ仮定される、夕焼けを好む性質の人の影
③二つの仮定「なら」、「よくよく阻んだその傀儡を」どうするのか?
④誰が「阻んだ」?、どの「傀儡」?という情報量不足の中に、謎の展開、事態の進行が1首の中で起こっていることのおもしろさ

 

みたいな感じで面白さを分節すればできるんだけど、たぶん初読で読者はこういう要素たちを直感的にいくつか、もちろん本来短歌の面白さなんて箇条書きできるわけないから色塗りみたいにして、キャッチしてるんだろうけど、それって多分最初に大事になってくるのはそれぞれの意味単位が持っているニュアンスの組み合わせだと思う。

 

たとえばこの歌なら「誘惑を好むたち」+「夕焼けを好むたち」+「よくよく阻んだその傀儡」という三つの要素のイメージがまず頭に入ってきて、そのあとで不完全に助詞や接続詞でつながったイメージたちを自分なりに組み合わせる作業がある、というか。

 

もうひとつ例を出せば

 

星菫派の過失のみ持つ錠剤を射止めてひととき口を噤んだ
(「かわいい海とかわいくない海 end.」)

 

なら、

錠剤を射止めてひととき口を噤んだ

の部分はたぶん割と普通の、普段使いの言葉に近づけて読めて、錠剤を射止める、普通ではないけど何となく、入手したり使うことを決めたり、自分と錠剤を結びつけて、それから少し口を噤んだというのもまあ辻褄は合って理解できるんだけど

 

星菫派の過失のみ持つ錠剤

の部分はあまり意味を通して読むことができないから、その時「星菫派」「過失」「錠剤」という言葉の持つイメージがすごく前に出てきて、そうすると自分のなかになんとなく、甘い感傷と失敗や退廃→そこに共通するなんらかの美意識、みたいなものがふんわり体感される、ような気がする。

 

☐☐☐

 

フォルム>意味

 

二首読んでみてわかるのは、こういう歌の作りって言葉のイメージというか材質、フォルム、みたいなものが意味よりも大事だということで、本稿では、これは現代詩的、とザックリ言ってみたい。

 

こういう作り方の人がいるのって、31音で何かしら筋の通るお話をする、っていう手法が飽きてくれば当然すぎるというか、まあそりゃそういう作り方もあるよね、っていうのが全うな反応なんじゃないかという気がする。

 

もともと瀬戸夏子の短歌やその他の話をするときに「「私性」に対する反抗」みたいなことを言われるとき、この反発されている「私」というのは、作者が短歌の中の主人公を生み出して何かを喋る、という「物語的私性」と言っていいと思う。瀬戸夏子が評論でよく言っている「アララギシステム…」みたいな話と近いかな。

 

本来短歌ではこういう「物語的わたくし」がマジョリティとされてるけど、よくよく考えるとこの仕組みって結構入り組んでて、

 

作者→短歌の中の主人公→物語的に意味の通る短歌

 

という風にワンクッションあるので、実は普段当たり前に読めているようで複雑だ。

 

佐クマサトシの歌評(過去の記事参照)でも似たような事を書いたけど、「人称派」の試みが、そういった「物語的わたくし」の文章に人称のずれを持ち込むことで作者→短歌の中の主人公(物語的わたくし) の部分の構造をチラ見せしている、と考えれば、「現代詩的」な短歌の作り方は

 

作者→詩的に構成された短歌

 

という風に、整合的に意味のとれない短歌になっていることで、短歌というテキストに詩情を発生させようとする作者の手つきが可視化されているんだと思う。つまり、短歌の中に主人公がいなければ、その歌をうまく構成した作者の美意識のようなものが感じられるのは当然の帰結じゃないか、という。だから瀬戸夏子の短歌は「物語的私性」がないだけであってなんらかの作者の人格は感じられると思う。

 

これを本稿では「現代詩的作者性」と呼びたい。物語的私性/現代詩的作者性。

 

☐☐☐

 

なんでそんな入り組んだことを? 穂村弘を起点に

 


そもそもじゃあ

 

作者→短歌の主人公(物語的わたくし)→短歌

 

っていう歌がマジョリティなのはなんでなんですか??っていう話になってくる。
最初から

 

作者→短歌

 

にすればいいじゃん。っていう話で。

ところがこれはたぶん複雑な経緯がある(たぶん。)そもそもアララギの人たちがどういうこと考えてたか、茂吉とか子規とか伊藤佐千夫とかが…みたいなことは全然勉強したことがないので、現在(だいたいザックリ俵万智以降?)の僕の認識の話をすると、

 

① まず前提として短歌は「思ったこと、というか生活の延長みたいなものを書くものだ」というパブリック・イメージの存在

 

これはわりと最初はみんなそうだと思う。それこそおじいちゃんおばあちゃんが「今日はこうこうこういう日でした」みたいなこと書く、みたいな。

 

② そのパブリックイメージを持って短歌を始めた人の作る歌

 

① のようなイメージを持って短歌を始める人が作る歌って、だいたい作者が思っていることを書く、もしくは想像の内容の範疇で何かステキなことを書く、みたいなことになると思う。

 

だから最初は、俵万智とか枡野浩一穂村弘を読んで短歌を始めた始めたての人の歌は限りなく

 

「作者≒主人公」→意味の通る短歌

 

みたいな形で作られがちだと思う。どういうことかというと、作者と作中の主人公の立場がかなり近いというか。現実に起こっていないことだとしても価値観とかは共有してそうな感じというか。

 

それが作者として成長していくと必ず、「あれ、自分って実際に起こってない事でもいい短歌のために嘘がつけるな」と気付けるようになってくると思う。例えば歌会で「この歌の「星」はステキな言葉を狙って書いた感じがする、つきすぎだと思う」みたいなことを言われたり、「この歌はわざとらしくて本気な感じがしない」みたいなことを言ったり。「サラダ記念日の「サラダ」は唐揚げだったんだよ~」みたいなよくある初心者向けのアドバイス


これは、穂村弘がよく言ってる「短歌というのは変なジャンルで、本気で言ってることを証明するために技術を尽くすみたいなねじれた構造がある」みたいな話とも関わってくるけど、どんどん「作者→主人公」の部分に出てくる気持ち悪さみたいなものにそれぞれが向き合う必要が出てくる。

 

穂村弘の「折れた翼理論」(リアルなほどよいモチーフを持ってくると一首にくびれが出てリアリティが生まれる、みたいなやつ。「短歌という爆弾」所収?)っていうのは、この気持ち悪さがまだそれほど言われていなかった時期、そういう手段が当時のトレンドとしてかなりメジャーだった(そして今も効力を発揮する)という事だと思う。

 

穂村弘が最近の瀬戸とのトークで「短歌というものが書かせてしまう「ハエ」「ごはんつぶ」みたいなゾーンが苦手」と言っていたのは、そこの気持ち悪さに対する違和感なのだと思う。

 

君のかばんはいつでも無意味にちいさすぎ たまにでかすぎ どきどきさせる
/宇都宮敦

 

はなんで褒めるんですか?と聞かれて、「短歌っぽくないじゃん」と言っていたのが印象的だった。

 

多分穂村弘は、「作者→物語的わたくし」は許せても、その「物語的わたくし」が「短歌的な風潮に乗っかった物語性、の。わたくし」になるのは嫌だったんだろう。だから「漫画のネームを短歌で再現すりゃいいじゃんね」という話にもなるし、短歌よりエッセイの方が求められるなら歌集よりエッセイでもいいじゃんね、とすら思うんじゃないか?という気がする。(こんなことは本人は言ってないが。僕が同じ立場ならそう思う気がするのだ。)

 

「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びら毟る宇宙飛行士
穂村弘

 

で、「そういう「折れた翼」的な物は違うよね」みたいなモードが、後続の世代にどんどん共有されてくると、「棒立ち」って言われるような修辞が出てくる。「修辞のクビレ」なんてもう古いっすよ。私たちはリアルに書きたいので「物語的わたくし」から「素敵な物語」を引き算すればいいじゃない。

 

あ 4時の28分 思うとき一つ傾きもうそうじゃない
/永井祐

(でも宇都宮敦の世界はすごく「素敵」ですよね…永井と宇都宮をひとくくりにするのはまた難しいのかも)


で、同じようにして、「作者→主人公」のダサさを回避するためにいろんな工夫が生まれてくるわけで、そうすると当然その一環として、「主人公取っ払っちゃえばいいやん」という方向性が出てくる。こうやって整理してみると「物語的わたくし」を取っ払うひとがレア、みたいな扱いなのが不思議に思えてきませんか?

 

おそらくここには、短歌と現代詩の間で明確に棲み分けがなされてきていることが影響しているのだと思う。けど、現代詩は短歌以上に勉強中、という感じなので今後何か思いついたらしゃべりたい。

 

☐☐☐

 

絵画史との素人考えによるパラレル

 

素人考えながら、これは絵画の歴史ともパラレルに話せるのかなという気もする。昔は偉い人の絵を、カメラマンみたいになった画家がいかに描くか、みたいなところに意識があったのが、印象派以降絵画のマテリアルそのものの持つ面白さみたいなものにフォーカスが当たるようになって抽象表現主義、ミニマルアート、みたいな方に至る…のような。

 

つまり絵の具みたいな性質、言葉そのものが持ってるイメージとかニュアンスを組み合わせて遊べば、普段使ってる言葉の重力に左右されずにイメージや詩情を操作できる、みたいな欲望があるように見えてくる。

 

まあとりあえずこういう瀬戸的なやり口をするのは全く理屈の上では不思議ではない、というひとつの例です。また勉強しておきます。

(ただこれだけだと、昔のフランスの詩人が「言葉からイメージが立ち上がってくる、それを音楽のように組み合わせる」って言ってたよ…みたいな話とどう違うんだ、っていう話もあってそれもよくわからない。勉強します。)

 

 

破調と文化に関する余談(読み飛ばし可)

 

瀬戸夏子の破調に関しても同じような話になると思う。最近考えているのは、短歌を作る人にとって「韻律」「定型」っていうものはもっとも身近な政治的規範のひとつで、短歌の作者っていうのはその政治性に対する距離の取り方を否応なく値踏みされてしまう運命にある。

 

例えば、すごく左翼的な歌を作る人って(とくに上の世代に)結構いるし、そういう人って「社会詠しなさい、これだから若者は…」みたいなこと言いがちなんだけど、そんなこと言いながらめちゃくちゃ短歌定型、短歌的韻律とか短歌的修辞に素直に迎合した歌作ってますね、なんなんすか?みたいなこと思う人って若い人なら結構いると思うんだけど、それもなんか短歌の歴史そのものに対する距離の取り方、という気がする。

 

それこそ瀬戸夏子の書く評論で取りざたされるような「天皇制とのつながり」云々…みたいなことともうっすら通底してるのかもしれない。現代詩の人から「お前らは定型の奴隷だ…!!」みたいなこと言われる、みたいな。

 

でも個人的には、そういう現代詩界隈の異常な左翼/反体制っぷりとか、詩集というフォーマットに対するカルトっぽいノリとかもそれはそれでなあ…と思うこともあって、例えば短歌は歌会の存在によって評論も比較的単語レベルで頭でっかちにならなくてすむ印象があったり、一長一短なのかな、という印象。なんだったら定型という外部がいるからこそ、トガったことやったときに映える、という面もあるかもしれないし。

話が逸れたのでとりあえず定型についてはいったんここまで。

 

(最近千葉雅也がツイッターで「短歌の定型」というものは、人間がもともと持っている「恥ずかしさ」に対する対処法の一つだ、って言ってたのも頷けるなと思って、そうすると定型というものは我々にとって足枷でありながら隠れ蓑でもある、というアンビバレントな(しかし世の中の他のものもなんだってそうだ…)立ち位置にいるとわかる。)

 

 

しかし、また話が逸れますが、短歌、俳句、川柳って日本が発祥なんですよね、当たり前ですけど。

 

根本的に日本の戦後文化のほとんどって、「海外から入ってきた文化(近代概念?)をどうやって日本のものとして消化するか」の歴史なわけじゃないですか。現代詩だったら新体詩抄以来自由詩というものが日本に入ってきて…「戦後詩」が生まれて…、とか。ロック音楽でも、はっぴいえんどがロックを日本語詞で実現することに成功して…って話があったり。現代美術でも「悪い場所」としての日本、みたいな話とか。

 

そうやって捉えると、「前衛短歌運動」が「戦後の左翼思想」というものを取り入れたり、「ニューウェーブ短歌」が「バブル時代のキラキラした世界観」を取り入れたのは、逆輸入みたいに思えてくる。

 

本来短歌という形式そのものはぜんぜん何とも交配しなくてよかったんだけど、日本社会そのものが海外の概念が入り込んでくることで変容してしまい、それを表現するために、「海外から持ち込まれた文化によって海外的になった社会」に表現を寄せていった、というか。

 

村上春樹ニューウェーブについて書いてる記事を伊舎堂さんがnoteに書いてるけど、それもそういう感じに受け取れるかもしれない。

 

でもそもそも短歌を作るときに「短歌的修辞、歴史性」みたいなものより、俵や穂村や荻原や東のノリ、の方が短歌には素直に反映されてるのかも。そう思うと短歌の定型というもののカラッポさの力、みたいなものを感じる。(それでいけば、さいきんあった平岡さんが「ニューウェーブ的な『キラキラの私物化』」じたいを批判するべきではないか、という話はすごくわかって、(とくに口語の)短歌って強力な「キラキラ」に対する志向性、同調圧力があるなあと思う。短歌ってそういうもんでしょ、みたいな姿勢というか。悪意とか汚さみたいなものってそれこそ現代詩の方にすごい目立つ気がするしそこもやっぱり反社会⇔いい子、みたいな棲み分けが必要以上になされてる感じ。瀬戸夏子の歌はそういう意味でフラワーしげる的、といってもいいかもしれない。)

 

 

 

☐☐☐

 

ミズヌマ・ツイート

 

 

水沼朔太郎さん(仲がいいので僕のブログによく名前が登場する。すいません)がTwitterで、瀬戸夏子やその他の短歌について

 

短歌が1→2を書くものだとしたら、飛躍が強すぎる歌は2が過剰で、「人称派」は(1→2)で、「身体派」(これは水沼さんの中である位置づけらしい、大森静佳とか花山周子が当てはまるらしい)は1と2の間をずーっと話してる歌で、瀬戸夏子の歌はそれでいくと0、って感じな気がする…

 

みたいなツイートをしてて、水沼さんすぐツイ消しするからツイートは残って無いんだけど

 

これは必要以上に図式的で抽象的だし、考える必要ないかな、と最初は思ったんだけど、なんかどんどんこの話が気になってきて、考えてくうちに、瀬戸夏子の短歌については二重の意味でこれは正しいのかもしれないな、と思うようになった。

 

水沼さんの真意は不明なので以降は僕のアイデアですが、僕が考えるようになったのは、短歌的な意味の飛躍が1→2にあるところを、作者のセンスそのものが、短歌的ななにかと切り離されて出てくる、みたいなところにあるんだと思う。

 

つまり、1(短歌の起点になる人の考え)→2(飛躍の結果いい感じの言葉の誕生)ではない0(起点のわからない(瀬戸夏子そのものの?)言葉)が提示される、ということ。

 

ここからは僕の勝手な追加になるが、これは人称の観点から見ても
0(作者)→1(作中主体)→2(短歌テキスト)、に0(作者の美意識)を提示する、みたいな構造と言えるかもしれない。それこそ「人称派」は1と1‘が同時に存在することで、(1→2)とカッコに入れる。背後の0の声はしてこないが、1→2が「作られたものだ」ということを示す。

 

(注:本人の話では、0というのはポエジーそのものを封印する印象、今僕が話してる第二歌集は2が強めで、第一歌集が0っぽい、というイメージらしいので本人談とはちょっとずれるかも)

 

 

余談その2、人称派

 

(吉田恭大が「自分の作歌信条はラディカルなアララギ」と言っていた(吉田さんのnoteかなんか参照)のと、佐久間慧が「僕は短歌で写生がやりたいんだと思う」と言っていた(『率 フリーペーパー集』の東西学生歌人紹介ペーパーみたいなやつ参照)、というのは結構パラレルでおもしろい。二人の歌には両方に一応「1」的な、作中の主人公ぽいものちゃんと用意されていて、1→2的な、アララギ的な読み方、書き方しか認めない、みたいな(それは0と1の違いをあまり重視しない)読者にとても親切になっている。

 

もうこれを正解として平日にしては混んでいるコーヒー・ショップ
/佐久間慧

バス停がバスを迎えているような春の水辺に次、止まります
/吉田恭大

 

そういう意味では、堂園昌彦の短歌はかなり特殊だと思う。彼の短歌に登場する作中主体は「僕」と名乗ったりして像がはっきりしているはずなのに、よくよく話を聞いてみるとその「僕」の思念は作者の美意識が反映されすぎているんじゃないか、と思えてくる。つまり作者のナイーブさが「僕」に乗りすぎている。

ところが作中で「僕」は「僕」のような顔をしてこっちを見ているので、不思議な説得力に気圧されてしまう。かなりやばい「私性」論議に両足突っ込んでしまってる感があるのでこれ以上は避けます。)

 

 

☐☐☐

 

瀬戸夏子 合わない部分 (検索)


ここまでは、わりと誰にでも共有できる「読み方」の話だと思う。正直僕は瀬戸夏子作品が合わない部分も多くて、ここまでは、半ギレかカリスマ扱いかしかない瀬戸夏子受容が苦手だな~と思って書いた話で、本来の僕の好みは今から話す部分になるんだけど、長すぎるので手短に。

 

最終的に瀬戸夏子を読む上で、0の部分のテイスト、つまり詩語そのもののかけ合わせ方のセンスがいまいち合わないなと思う部分がある。


僕は瀬戸夏子の「0」はナイーブだと思う。瀬戸夏子の私家版詩集を古本で買う機会があって印象に残っている(『現実のクリストファー・ロビン』にも入ってるけど)ので、どういう風に苦手かうまく書いてみたい。


音楽の浅瀬に甘い脚を浸しているあの子の後頭部を寸分のくるいもなく撃ちぬけるような、鏡と、お金と、ヘレニズム的なスノッブが欲しい。
(「ネビュラ賞」/『約束したばかりの第一歌集と星と菫のために』)

 

「あの子」「甘い」「音楽」「後頭部」「撃ち抜く」が近すぎる…
「お金」と「スノッブ」というややニヒルな言葉の手つきが逆に「あの子」と「自分」の「二人だけの世界」的な空気を強く感じてウッとなる…

 

 

ならべられたふたつの眼球、穴の開いた天井からゆきずりの巴里の声、「恥しい」を「やさしい」と呼んでしまうこと、もうありません、笹を貪るパンダまでもうすこし、メリーバッドエンドまでもうすこし。
(「凍りついたひとびと、そしてささやき」/『約束したばかりの第一歌集と星と菫のために』)

 

 

眼球/巴里、という取り合わせはおもしろい気がするけど、「メリーバッドエンド」的な美的感覚に上手く入って行けない…破滅の美学、みたいな? 自分のこと好きそう、って思っちゃう…
でもこういう「二人だけの世界」「破滅の美学」みたいなものを内在させているのは「俺」かもしれない…という後ろ暗さもあるが、本稿では控える…

 

 

最近こういうことを考えていて気付くのは、「現代詩的作者性」を重んじる作風になるほど、「うまい」「へた」的なレベルよりも、より言語化しづらい趣味・嗜好が歌の好き嫌いに影響するな、という点で、これは短歌を作る人には大事かもしれない、と思う。

 

1→2が合わないとき、それは1→2を作者がこの歌でうまく調理できなかった(つまり、よくできた物語を作れなくても次回いいのができるかも)と思える。でも0が合わないとき、もちろん0を作者なりに調節していたとしても、次回も同じような0が提供される可能性が高い。なぜかというと作者の持っているセンス的な物により直接的につながっているから。(いや、「作者そのもののセンス」って何なんだよ、そんなものあるのか、って言えばそうで、そうすると無限後退が止まらないので…)

 

 

僕は瀬戸夏子の「0」はナイーブだと思う。これは僕が(瀬戸が影響を受けていると自認するらしい)中尾太一に抱く感想とも近い(全部の詩集を読んでいるわけではないが)。それが僕にとってどういう意味を持つのか今は断言できない。「現代詩的作者性」がうまく合っていないな、と思ったらそれでもう二度と終わり、っていうのは寂しすぎる気がする。

 

(誰かしらのそこそこ有名な詩論に「詩は今や偶然の出会い(作者と読者の勘がマッチするかどうか)になってしまった…」みたいな感じのがある、って話をなんかで読んだけど何で読んだか思い出せないので全く探しようがない。)


いや、長すぎるのでいったん本稿のまじめな話はここまでにします。とりあえずここまで書いてきたこと、を出発点にして瀬戸夏子の歌についてもう少しみんな話しませんか。半ギレはもういいでしょう。というかここまで読んでくれた人ってどれくらいいるんだろう…笑


2013年6月の江田浩司のブログに書いていた文章が面白かったので引用します。

 


昨年の七月に瀬戸夏子の第一歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』が上梓された。(…)だが、多くの歌人が読むことで、瀬戸への評価がすぐに定まるものでも、顕彰への動きが生まれるものでもないだろう。下手をすれば、はじめから批評の意志を放棄したドグマに曝されないとも限らない。自分の理解が届かない歌や、短歌観からずれる歌に対して「自分勝手な表現」と決めつけることほど傲慢なことはないが、歌壇における批評(?)の場では、しばしばそのような言葉がまかり通っている。これは、身内や自分の短歌観に近い歌は、それほどの出来ではなくとも褒めるのと表裏一体である。(…)瀬戸の歌集がこれまで歌壇で話題になっていないのは、歌集の流通の問題ではなく批評の意志の問題である。瀬戸の歌が確かに短歌にとって必要な歌であるのならば、批評の意志を歌壇に示さなければならない。それは、瀬戸の歌の読者の役目でもある。

(瀬戸夏子第一歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』を読む。)

 

万来舎 短歌の庫 江田浩司評論

 

 

状況は果たしてここから一歩でも進んでいるのかしら……?

 

 

☐☐☐

 

一歩も(?) 進んで(?) いない(?)

 

 

しかし本稿もそもそも「一歩も進んでいない」、気がすることをやめられない。

最初に言った

 

本稿ではできるだけジェンダー的な視点に論を回収させることに禁欲的になろうと思う。これは感覚的に、ジェンダーの話を今この2019年5月に持ち出して短歌を批評すること、は、僕にとって楽をすることのように思えるから。

 

 

っていうのは嘘で正直ビビっている。このビビるそぶりすらも「男」的なキモさに思える。


女の子に守られて生きていきたいとときどき思うだけの新世紀/五島諭
男のコっていいねと言ってもらいたくて今まで生きてきたんだ たぶん/宇都宮敦
ベルトに顔をつけたままエスカレーターをのぼってゆく女の子 またね/永井祐

 

「男」、キモくないですか…?そもそも「男」「女」って分ける事自体がナンセンス?

 

「男」? いや、「男」? 見せ消しの…?

 

遊びはやめておきます。そろそろこの評論を閉じないと、叱られる… 誰に?

 

 

☐☐☐

 

瀬戸夏子・水泳・日本脱出

 


瀬戸夏子は居心地が悪そうだ?

 

 日本を脱出したい?処女膜を大事にしたい?きみがわたしの王子様だ

 

短歌は水泳のようだと思う?

 

みずうみに出口入口、心臓はみえない目だからありがとう未来

 

瀬戸夏子が泳ぐ「海」、不快さ、って、「男」と切り離せない? だとして僕たちは?

 

 海をまるごと吸いこむピアノ 食卓に並ぶ 海をまるごと吸いこむピアノ

 

 

この稿でこれ以上突っ込んで書く気合がないです。

 

再演よあなたにこの世は遠いから間違えて生まれた男の子に祝福を

 

 

自分で考えろ、って話なんだけども……

 

ついさっきのことなのに 花丸をつける 命をあげる どんな曲だと考えて

 

花丸をつける、に喜ぶ「男」が気持ち悪くないですか?

 

恋よりももっと次第に飢えていくきみはどんな遺書より素敵だ

 

ほんとに素敵だと思ってるんですか? 遺書より? 僕も居心地が悪いですけどどうしたらいいですか? 質問ばっかりですいません、みなさんはどうしたらいいと思いますか? みなさんはどうしますか?

 

水泳?

 

日本脱出?

 

 

☐☐☐

 

 


(2019年5月9日 青松輝)