アオマツブログ

青松輝(あおまつ・あきら)。短歌・批評など。Twitter:ベテラン中学生、YouTube:ベテランち。

クリスマス・ソングと短歌のナカグロ


いかがおすごしでしょうか。青松です。クリスマスにひっかけて、クリスマス・ソングについてのクリスマス・短歌のクリスマス・評論を書きました。10分以内で読めると思います。

 

「日々のクオリア」で平岡直子さんが評していた歌と同じ歌なのでそちらと読み比べてもおもしろいかもしれません。

 

sunagoya.com

 

また、佐クマサトシの短歌については僕のブログの

 

vetechu.hatenablog.com

 

こちらの記事に総論的な紹介があるので気になる方はご覧ください。


 

クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ
(佐クマサトシ『vignette』)


ナカグロ、つまり「クリスマス・ソング」の「・」、の持つ効果について最近はよく考える。



「作中主体」という言葉がいつから当然のものになったのか僕は知らないけど、「「作中主体」という言葉が当然のものになって久しい……昔は違ったけどね」という話を時折耳にする。

 

確かにそれもそうで、短歌にとって「作中主体」の存在はべつに自明ではない。57577で書いてればなんだって短歌になっていいはずだ。

 

短歌の新人賞の評などで、年配の短歌関係者が〈短歌の中の話〉を〈作者の実話〉と混同しているとき「作者と作中主体の区別もついていないのか!」と怒る人を見たことがある。その怒りはもっともで、短歌に書いたことと、作者が思ってることを混同されてはたまったものではない。

 

ただし、逆に、「作中主体は作者と別!」というお題目を覚えればいいかといえば、ことはそう単純ではない。作者と作中主体の共犯関係を利用している、にもかかわらず、「作中主体と作者は別!」という言葉を、「作中主体」という観念に無批判に唱えている人を、実際に僕は見たことがある。

 

アララギ以来の古い短歌の価値観に毒された老人がいつまでも作者と作中主体を混同してて困るわ~」、みたいな言説(そんな言説ないかもしれないが)の中に隠れている、そもそも短歌の中に一個の人格が存在していてその人の発話ないし記述をわれわれが想定しないといけない、という暗黙の了解。「私性って作中主体と作者を混同させて気持ち悪いよね」、というノリの人に、「あなたは、「わたくし性」って気持ち悪いわ、といいながら、その「わたくし性」と共犯関係にある書き方でしか書けてない(もしくは書いてない)のではないですか?」と訊き返してみたくなる。

 

要するに、その短歌、の内容が現実の作者の生活とどのようなレベルで関係があろうが、ほとんどの場合で短歌の作品はその作者の名前(あるいは生活)と共犯関係にある。共犯関係にあることによって「作者と関係のない作中主体のいる一首」は、その引力をぎりぎり保ったまま、「くそつまらない何か」にならずに生きながらえてきた、といってもいいだろう。

 

 

枯れ花の花輪を編みて胸にかけむ乳房還らざるわれのために
中城ふみ子

 

傘を盗まれても性善説信ず父親のような雨に打たれて
(石井僚一)

 

中城の乳房は実際に喪われていて、逆に石井の父は死んでいなかったわけだが、どちらにせよ、われわれが「作者」「作中主体」の両方を、その短歌のなかで、重ね合いながら感受してしまうのは確かだろう。「作中のわたくし」は「作者のわたし」と共犯関係にあって読者を篭絡している。

 

そしてそれは僕自身の作品にしても同じだ。

 

 叙景はもう過ぎてしまって茜さす発想をときどきは閃く
(青松輝『design』)

 

「叙景が過ぎてしまった」のは「作中主体」ではなくて「青松輝」なのではないか、というようなことを、自分が短歌を作りながら思わない時は殆どない。


 

ナカグロをナカグロたらしめられるのは作者だけだ。

 

クリスマスソングのことをクリスマス・ソングと書けるのは作者だけだ。

 

マリリン・モンロー」のナカグロは言い訳が効く。マリリン・モンローをマリリンモンローと書いたら変だから、作者は、作中主体の声を文章におこしただけです、という言い訳が。

 

村上春樹のナカグロをおちょくるネタツイートが流行ったことがあって、

 

 

 

 

これは要するに、村上春樹が作中でやってる、物語の語りとは別のレベルでの、カッコつけている村上春樹の手つき、みたいなものを面白がってるんだろう。

 

その「カッコつけた感じ」は、つまり「クリスマス・ソング」のような言い訳のきかないナカグロの操作の露骨さからきている。

 

作中主体は書くことができない。フィクションっぽい表現として「作中主体」を登場させるとき、短歌の文字列は演劇の台本や小説のようなもの、として読まれている。つまり「作中主体」の言葉は書き言葉ではなくて話し言葉や思念として想定される。それを書き起こすのは作者の仕事だ(と思われている)。

 

その状況は、短歌の「わたくし」を補強する、あるいは弄ぶような「口調」の短歌が、多くの作者・読者に好まれるという事実と無関係ではない。

 

煙草いりますか、先輩、まだカロリーメイト食って生きてるんすか
(千種創一『砂丘律』)

 

エスカレーター、えすかと略しどこまでも えすか、あなたの夜をおもうよ
(初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』)

 

 

掲出歌に戻ろう。

 

 クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ
(佐クマサトシ『vignette』)

 

クリスマスソングって、we wish you a merry christmas♪ のことかなぁ……と思いつつ、非人称的で無機質な口ぶりを見ている。しかし、この歌では逆説的に「作中主体」という観念が効力を発している。

 

平英之さんがTwitterで最近「発話的なことば」と「記述的なことば」の二分をもとに短歌を考えたい、とよく書いているけど、これは有用な着眼だと思う。平さんは「作中主体」という視点よりも有用だと思う、みたいなニュアンスで発話的、と言っていたけど、あえて二つをまとめて考えてみる。(あくまで平さんのツイートをヒントに僕が言ってること、と捉えてください。)

 

「発話」的な言葉が発生している時、われわれは「作中主体」を設定する必要がある。読者は、作者のできる仕事は「57577のことばを紙の(もしくは画面の)上に配置することを指示する」ことだと知っており、作者と読者との会話と、作品は違うとわかっている。

 

そのとき、いくらこの一首が機械的なほどシンプルな文体をとっているにせよ、「クリスマス・ソングが好き『だ』」と言っている誰かの存在を仮定することが要請される。それは普段よく聞く「作中主体」という言葉とたまたま一致しているかもしれない、し、もしかしたら「作中主体」は「作者」かもしれない。

 

いったん、「ソングが好きだ」を「作中主体」が言っているとしよう。じゃあ「嘘だ」と言っているのは?と考えることになる。普通に一首を読むなら「好きだ」と言っている「作中主体」が「嘘だ」と言っている、ということになるのかもしれないが、単にそれだけでは済まないところにこの短歌のおもしろさがある。

 

「好きだ」「嘘だ」という、あまりにも見え透いた構造の思い直し(=作為)。その見え透き方が、あまりにも露骨なために、その作為はあえて見透かされさせられているように見える。

 

だとしたら、「嘘だ」という言葉は作者自身の、この短歌そのものに対する自己言及にも見える。嘘だと言っていることじたいも嘘かもしれないし短歌という形態自体が嘘なのかもしれない。でも、いずれにせよ、やっぱりクリスマスソングを好きでも嫌いでもない誰かの姿が見えるのが基本にある、ことには変わりがない。結局この「嘘だ」は誰の声か特定することが、「好きだ」とくらべてワンランク難しい。

 

デファクトスタンダード的な「作中主体」をぶれさせようとする佐久間=佐クマの営みは、逆説的に、ここでもまた作者と「作中主体」の共犯関係にある。姿を消しながら共犯している二人。

 

それは佐久間慧の、いなさそうな「僕」を設定する確信犯じみた手つきと同じものだ。

 

晩年は神秘主義へと陥った僕のほうから伝えておくね

 

そう、その日のローソンはひどく凪いでいて、僕は朝を手にレジへ向かった

(佐久間慧)

 


 

分裂といえば、クリスマス、という言葉、日本のクリスマスの特殊さ、そして分裂した日本人の国民性もよく話題にあがると思う。キリストが生まれた(らしい?)日を日本人が総出で祝ってることの気持ち悪さ……みたいな。

 

でもたぶん、それをなんだかんだ楽しむ、みたいな日本の(都市の?)ノリが確実に存在していて、平岡直子の「そんなにクリスマスソングのことが嫌いでもなさそう」そして「短歌の韻律の享楽に対して楽しみながら反抗している」という評も頷ける。

 

sunagoya.com

 

「嘘だ」は「嫌いだ」ではない。クリスマスソングにべつに憎悪があるわけでもなく、「クリスチャンじゃないのに」みたいな自省をするわけでもなく、ここにある「好き」も「嘘」もかなり儚いテンションなのだと思う。儚いテンションの対象として選択された「クリスマス・ソング」は、共感性がおそらく高い、上手いモチーフであるとともに、微妙にチャラいナカグロも含めて日本人的な軽薄さを体重をかけて肯定する態度でもあり、ここにはわたしも一緒に体重をかけたい。
(平岡直子)


分裂しながら共犯している、という態度は、(日本の?)(戦後の?)(近代の?)ぼくたちの暮らしそのものと密接にかかわっている。クリスマスソングに限らず、何かを好きだ、というときに必ず何かを先送りしながら肯定しているような。

 

(これは、「うた」というものの自己肯定的さ(一回性、といってもいいかもしれない)と、「文字」というものの自己否定性(とくにパソコンでの書き直しの無限さ)とも繋がっていて、そしてそれは「近代」「日本」みたいなものと密接にかかわると考えている。安直な気もするけど、戦争、もしくは西洋、に対して日本的なものを対置してなあなあのまま両方を先送りするようなイメージ。それはいったん措いて、今後もう少し整理して書けたらと思う。)

 

 

そしてナカグロがある。クリスマスソングがクリスマス・ソングになっている。

 

このナカグロは言い訳がきかない。ナカグロを書いたのは佐クマサトシ以外の誰でもない。さっきも言った通り、マリリンモンローをマリリン・モンローと書くのと、クリスマスソングをクリスマス・ソングと書くのではすこし違う。クリスマス・ソングの方が(それこそ村上春樹を題材にしたネタツイートのようにおちょくられても)言い訳がきないからだ。

 

この歌で作者は一字空けやカタカナ表記を、意味が伝わりやすくするために調整する、ということよりも強いレベルで、ナカグロによる作者の介入があった、という痕跡を、おそらく直感的に、あえて、残している。

 

この歌は三点倒立している。「好きだ」と「嘘だ」で震えている両手を、ナカグロが支えている。

 


そして僕はここで、この2019年に一番思い返した

 

 チャーハンをパラパラにする・安全な中絶の・方法を知ってる?
(宝川踊『SAFETY』)

 

を思い出すわけだけど、クリスマスの夕食のために今日はここで終わらざるをえない。

 

🎄

 

12/25 青松輝



縦書きについてとか、カタカナについてとか、まだまだ書きたいことはあるのですが今日はここまでです。あと30分ほどですがよいクリスマス(もしかしたら年末・新年)をお過ごしください。それではまた!