I Hear You -木下龍也と〈神〉の問題
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2022年の10月に発売された木下龍也の第三歌集「オールアラウンドユー」には、〈神〉のモチーフが登場する短歌がいくつもおさめられています。
詩の神に所在を問えばねむそうに答える All around you
じんるいでさいごのひとりになったらかみさまとおはなしができます
神さまを殺してぼくの神さまにどうかあなたがなってください
捨てられた車が神の役割を果たす子猫と雪を隔てて
-木下龍也「オールアラウンドユー」
収録歌数が123首であることを考えれば、これだけの頻度で〈神〉が出てくる歌集は珍しいでしょう。彼はこの歌集で〈神〉について思考しているようです。
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木下はことし(2022年)、全国放送のテレビのドキュメンタリー番組に取り上げられました。僕もリアルタイムで放送を見ていましたが、そこで僕が驚いたのは、創作のために苦しみ、読者から救いを求められ、必死で短歌を書く木下の姿が、人でありながら〈神〉のように描かれていたことでした。
たしかに、木下龍也はいま、短歌の世界で、もっとも〈神〉に近い書き手のひとりだといえるでしょう。単純に、影響力があり、読者を動かせるという意味においてです。
木下の歌を読もうとして「手が震えちゃう」という読者。
〈神〉の問題は、短歌のことを考えるうえで、ずっと僕にとって重要な位置を占めています。たしかに、誰かのために何かを書くひとを〈神〉のように感じるのは自然なことでしょう。そのひとは、読者自身も気付かなかった、読者の欲しいことばを予め知っていて、先回りしてそれを与えます。しかし、われわれは何の権利があって、他人を〈神〉に仕立て上げるのでしょうか。答えは出ないままです。
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読者からすれば〈神〉のようにも見える木下自身は、〈神〉というモチーフをどのようにとらえているのでしょう。
本稿では、木下龍也の短歌を中心に、短歌あるいは創作における〈神〉はどこにいるのか、われわれはどのようにそれと向き合うのか、考えてみます。私的な見方や過剰な言い方もあるので、割り引いて読んでください。
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さて、この〈神〉の問題について、歌人・木下龍也は以前から自覚的であったように見えます。
2016年に出版された木下龍也の第二歌集「きみを嫌いな奴はクズだよ」にも、〈神〉をモチーフとした短歌は登場します。まず、歌集タイトルに採られた歌がそうです。
あとがきにぼくを嫌いな奴はクズだよと書き足すイエス・キリスト
-木下龍也「きみを嫌いな奴はクズだよ」
(「イエス・キリスト」は実際には〈神〉とはすこし異なりますが)ここで木下は、短歌のなかに〈神≒イエス〉を創造し、神のことばを創造しています。
「ぼくを嫌いな奴はクズだよ/きみを嫌いな奴はクズだよ」。このような(追いつめられた人間の強がりにもみえる)強いことばを、木下は〈神〉に代わって読者に与え、読者を救おうとします。
「きみを嫌いな奴はクズだよ」と書いたのは木下龍也ですが、「ぼくを嫌いな奴はクズだよ」という言葉を放つのは〈神≒イエス〉です。このとき、〈神〉と〈神〉について語る〈作者〉は、重なってみえます。この揺らぎと重なりは意図的に作られ、この歌じたいが、歌人・木下龍也に対する無限の自己言及になっている、と読めるかもしれません。
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では、〈神〉のような人間というのは、どのような人間のことでしょうか。たとえば、誰かの欲しい言葉がわかって、それを与えられる人物は、〈神〉のように見えるかもしれません。
立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ
-「きみを嫌いなやつはクズだよ」
この歌が魅力的で、読者を惹きつけることがわかるからこそ、僕はこの歌が嫌いですが、この歌でも〈主体〉は〈神〉に限りなく近づいているようにみえます。
〈君が背負っているもの〉を〈君ごと背負う〉ことを本気で試みた人物こそ、そのようなことが不可能であると痛みをもって認識しているはずです。あるいは、この歌は、嘘であることを知りながら嘘をついている強さにこそ魅力があり、それこそが〈神〉の慈悲なのかもしれません。
個人としての意見を書いてよければ、作者がそのような〈神〉としてのパフォーマンスを行うのは、やはり嘘なのではないか、と僕は思います。しかし、反発しなければならない何かを感じさせるのも、この歌の〈神〉のようなスタンスであり、求心力だといってよいでしょう。
つねに作者、あるいは主体は、作品の中で意図的かつ簡単に〈神〉と混同させられうるし、そのような戦略は非常に効果的なのです。
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いずれにせよ、第二歌集での木下龍也は、みずからを神に重ねるほどの強い自意識を武器として、作品世界をつくってきたように見えます。
それは、みずからを「天才」と呼び、つねにマーケティングと一体の戦略をとる木下の一種のパフォーマンスでもあり、そのような立場をとらざるをえない孤独と向き合うための、ある種の誠実さでもあるように見えました。
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このような詩人の自己認識は、木下に特有のものではありません。あるいは、なにかを制作する、という孤独な行為の果てに、そのようなヴィジョンが待っているのでしょうか。
短歌以外のジャンルでも、作者がみずからを神に重ねる姿勢が選択されることはあります。ラッパーのカニエ・ウェストは、自身の愛称「Yeezy」と神「Jesus」を組み合わせて、『Yeezus』というタイトルのアルバムを2013年にリリースしています。その中には「I am a God」という曲も収録されています。
Get the Porsche out the damn garage
I am a god
-Kanye West「I Am a God」
直訳すると「ポルシェをガレージから出せ、俺が神だ」という感じでしょうか。そんなことはないだろ、と思ってしまいますが、カニエはこれを本気で言っているはずです。
〈神〉を発明したのが人間であり、聖書を書いたのも人間である以上、ラッパーや詩人が自分のことを〈神〉に重ねるのは、それほど不自然ではありません。何かを書くものは、〈神〉にいちばん近いところにいる、というわけです。聖書を書いていた人たちは、ラッパーになっても詩人になっても成功したでしょう。(カニエはその後、「サンデーサービス」という礼拝のイベントを始めたり、「福音主義者」とよばれる、より保守的なグループの影響をうけた活動に移行して、「Yeezus」と名乗っていた時期のことを否定するようなキャリアを辿ります。)
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また、先行世代の作家であり、木下が短歌を始めるきっかけだという穂村弘の作品にも、〈神〉あるいはキリスト教にまつわるモチーフはよく登場します。
五月 神父のあやまちはシャンプーと思って掌にとったリンス
編んだ服着せられた犬に祝福を 雪の聖夜を転がるふたり
-穂村弘「シンジケート」
ハイウェイの玉突き事故の配色が虹で巡査もほほえむ真昼
-木下龍也「きみを嫌いな奴はクズだよ」
木下のある種の歌群は、名詞のシャープな操作や、モチーフの鮮やかさにおいて穂村弘の影響を感じさせます。
しかし、穂村の初期作品では、これらキリスト教的なモチーフは、穂村の享楽的な作風の中で、操作を行うために登場させられた素材、という印象があります。これは木下の歌が、直接的に〈神〉を題材にしているのとは異なります。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書
-穂村弘「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」
穂村の歌では、聖夜や聖書のモチーフは、あくまでも若者たちや恋人たちのキラキラした感覚を象徴しています。もちろん、それが単なる消費社会の肯定ではなく、もっとラディカルな反権力・反権威性をそなえていることには注意しなければなりません。
木下龍也の短歌における〈神〉の問題は、「神は死んだ」ことを認識し、享楽しおわった世界で、穂村から一歩進んで「では誰が神の代わりをするのか?」というわれわれに与えられた課題を反映しているようにも見えます。
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このようにして、詩人は〈神〉に近づいてきました。
神様は君を選んで殺さない君を選んで生かしもしない
-木下龍也「きみを嫌いなやつはクズだよ」
まちがいなくこの時期の木下は、〈神〉に代わって世界を語ることができた。この歌に救われる読者が多くいるのはまちがいないでしょう。
しかし、問題は、神に代わって言葉を発すれば、救われる人がいるのと同じように、傷つく人がいる、ということです。
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これは私見ですが、おそらく〈神≒詩人〉という企図は、この2022年には作者自身のなかで挫折をむかえています。これは、第三歌集における木下の〈神〉の扱いを見れば明らかです。
具体的な原因や理由は、われわれには知りようがありません。〈神〉でいつづけることは、それほど簡単ではない、ということなのでしょう。
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第三歌集での木下は〈神〉の問題に対する向き合い方を転回させたように見えます。たとえば、第三歌集の表題歌になった、この歌ではどうでしょう。
詩の神に所在を問えばねむそうに答える All around you
-「オールアラウンドユー」
この歌で〈主体≒わたし〉は、詩の〈神〉を外部に求め、それを探しています。〈わたし〉は〈神〉とはほど遠い存在として描かれています。第二歌集での木下なら、もしかすると、自分こそが詩の神だ、と皮肉をこめて嘯いてみせたのではないでしょうか。
しかし、〈主体〉が〈神〉でないとするなら、〈神〉はどこにいるのでしょう。僕の意見では、〈神〉を代替するのは短歌の定型です。この短歌において、〈神〉は〈主体≒わたし〉の側ではなく、むしろ短歌/定型の側に設定されている。
「オールアラウンドユー」とは、あらゆるところに〈神〉は存在する、という意味ですが、われわれ、短歌の作者/読者にとって、あらゆるところに存在するのは「定型」という5・7・5・7・7のフレームにほかなりません。「どこにでもいる」という、判断の停止を短歌のなかで行うことは、そのまま定型の信仰へ結びついてゆきます。
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実は、この〈定型≒神〉という感覚も、けっして不自然なものではありません。短歌の書き手のあいだでは、短歌あるいは文学の〈神〉のような存在に作品を捧げる、というヴィジョンは脈々と受け継がれてきました。
そして僕は、この〈定型≒神〉というヴィジョンは、木下龍也においては「あなたのための短歌」というプロジェクトを通過して出てきたものではないか、と考えています。
「あなたのための短歌」とは、木下が2017年から取り組んでいる、読者からの「お題」を受けて、それに応じた短歌を木下が便箋に書いて返送する、という有料のサービスです。2021年にはその過程で制作された700首の短歌のうち100首をまとめた書籍「あなたのための短歌集」が出版されました。
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それまでの木下の短歌の多くは、ある意味で、ひじょうに独我的なものでした。初期の歌集に見られた「アイデア一発で切る」ような短歌自体が、「短歌の作者≒世界の創造者」といった図式を強くします。しかし、「あなたのための短歌集」に収録されている木下の作品は、作品に依頼文が併記され、これまでの歌とはまったく響きが異なっていました。
依頼者:お題は「たこ焼き」です。夫と付き合ってから食べるようになった思い入れのある食べ物です。
恋人はノアの手つきでうつくしいたこ焼きだけを舟皿に盛る
-木下龍也「あなたのための短歌集」048
この歌では、作者ははもはや〈傲慢な神〉ではなく、短歌の定型と読者の欲望を媒介する天使のように振る舞っています。作者はあくまでも読者と定型のために奉仕しており、読者の欲望を先取り、支配する〈神〉の姿はそこにはありません。
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木下龍也は、「あなたのための短歌」において、ある意味で危険な賭けに出たといえます。それは、自らの持っているプロフェッショナルな技術を他者のために捧げ、〈神〉を〈わたし〉ではないところ、たとえば〈定型〉や〈読者〉の方に設定するための試みでした。
依頼者が不安や悩みを依頼文として言葉にできた時点で、僕がつくる短歌は50%完成していると思うんですね。残りの50%を僕が感情や技術で完成させているだけなんです。
-木下龍也「短歌は感情の記憶装置」
支配する存在から、される存在へ。このような転回は、一歩まちがえれば、作者としてのアイデンティティを脅かしかねないでしょう。自らを〈神〉に重ねるほど強い意志をもって作品を書いていた人物が、自らの技術をすべて使っていち読者の欲望を満たすような短歌を作るのです。
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あるいはこのような方向を突き詰めていけば、短歌を作る行為じたいを、ファシズム的なものとして捉えることもできるかもしれません。大衆が求める〈うた〉を情緒的に奏でる者だけが、独裁者になれるのです。たとえばこうして。
お題:国家に携わる仕事をしています。天皇の治世を肯定してくれる短歌をお願いします。
君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔の生すまで
-よみ人知らず
こうして、定型と他者は重ねられ、〈神〉が現れます。そのための供物として、〈歌〉はよく働くことができます。定型という〈神〉と、そのための供物としての〈歌〉。それらを扇動するのが〈わたし〉です。
神さまを殺してぼくの神さまにどうかあなたがなってください
-「オールアラウンドユー」
しかし、このようなリスキーなプロセスを経たからこそ、木下龍也は第三歌集を書くことができました。「オールアラウンドユー」に収められた歌群は、なにかを失ったあとの透明感で覆われたような、新たな手触りを備えています。
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この〈神〉の問題は、僕が過去になんども繰り返し書いてきた、SNSを統治する〈AI≒神〉の問題や、短歌や詩の〈歴史〉の問題ともつながっているように思います。
短歌が今でも続いているのは、短歌という“魔物”みたいなのがいて、それぞれの時代で自分を作ってくれそうな人に自分を作らせながら生きながらえているからだと思うんです。選ばれた人は作っていくしかない。僕は穂村さんの歌集を通して短歌に救われて、選ばれたんだと勝手に思っています。
-木下龍也『クイック・ジャパン』vol.158
上のような木下の発言は、〈魔物〉を〈神〉におきかえれば、ここまで書いてきたことと完璧に重なります。
つまり〈歴史〉は〈神〉であり、われわれは〈神〉のために供物を作り続ける、ということです。このような姿勢は、短歌の作者や読者に安心を与えてくれます。
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しかし、どうでしょう。「オールアラウンドユー」の具体的な短歌の良し悪しは別として、上で語られているような認識には、僕は反対です。〈神〉も〈歴史〉も、単にフィクションなのではないでしょうか。我々に起こっていることは、人間が作品を作り、それが人間に読まれる、というシンプルな関係だけです。
当然、書いたものが人を救うことも、傷つけることもあるでしょう。それらの責任を負うのは書き手と読み手であって、〈神〉でも〈魔物〉でもないのです。
ですから、ここでも僕は、〈あなた〉や〈短歌〉を〈神〉のように扱うのも、やはり間違っている、と言わざるをえません。
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おそらく昔から、すぐれた若い詩人たちは、たったひとりで自らを〈神〉に近づけようとしてきたのではないでしょうか。もちろんそれは、作品を通して行われます。
〈わたし-神〉は、すべての作品を統御し、読者を救い、傷つけ、支配する。もちろんそのように孤独な道のりは、詩人自身を追いつめました。
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そして、詩人は次に、誰か自分ではない〈あなた〉という〈神〉のために作品を書こうとするかもしれません。
かなしみの森をあなたのろうそくの火で台無しにしてほしかった
-「オールアラウンドユー」
しかし、どちらにせよ同じことなのです。
〈わたし〉を〈神〉を近づけようとする動きも、〈あなた〉を〈神〉に重ねる動きも、短歌定型(あるいは他者)との関係が共依存的であるという意味で、表裏一体であるといえます。〈わたし〉と〈あなた〉のどちらが〈神〉になっても、ふたりはlove-hateの関係性にある。
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じんるいでさいごのひとりになったらかみさまとおはなしができます
-「オールアラウンドユー」
かぎりなく孤独なところまで降りていって、最後のひとりになったとき、〈わたし〉が〈おはなしをする〉のは、わたし自身なのか、それとも定型なのか。
〈わたし〉が作品を書くとき、あるいは〈わたし〉が、自分だけの生を生きているとき、かならず、ふかい孤独と向き合うことになります。そのとき、誰を信じればよいでしょうか。自分自身という神か、それとも、あなたという神か。
僕は、そのどちらも選ぶ必要はない、と考えています。何度も言うように、〈わたし〉を神にするのも、〈あなた〉を神にするのも、単にまちがっているのです。
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青山ブックセンターで買ったサイン入りの「オールアラウンドユー」には、サインに添えて、直筆のこの短歌が書き込まれていました。
捨てられた車が神の役割を果たす子猫と雪を隔てて
-「オールアラウンドユー」
この歌は、われわれが向かうべき方向を示しているように思えます。本稿で扱った〈神〉の短歌のなかで、僕はこの歌がもっとも好きです。
雪が降っていて、捨てられた車がある。その車のおかげで、子猫は雪の寒さから逃れることができている。子猫は車の下にいるのでしょうか。この歌で重要なのは、神の役割を果たすのが「捨てられた」車であることです。
今ここでだけ、捨てられた車は「神の役割」を果たす。車がそのまま〈神〉なのではなく、この瞬間は子猫にとって〈神〉である車も、誰かにとってゴミだったから、いま捨てられている。世界とはそのようなものだったのではないでしょうか。
それを詩人は、ただ書きとめて、この歌の中でだけ〈神〉に近づけばよい。ここでは〈詩人〉も神の代弁者ではなく、雪の日をただ経験するひとりです。誰も、ひとりで神と戦う必要はない。
〈定型〉と〈作者〉、〈神〉は二人もいらない。そうかもしれません。しかし、その一瞬一瞬で、その〈神〉の矛盾と衝突を引き受けるのが、わたしであり、そのとき〈わたし〉は〈神〉になるのではなく、今ここでだけ〈神〉の役割を果たす。それが続くかぎり、その瞬間にだけ、短歌は書かれるでしょう。
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邦題になるとき消えたTHEのような何かがぼくの日々に足りない
-木下龍也「玄関の覗き穴から射してくる光のように生まれたはずだ」
まぎれもなく、木下龍也の作品の中で最もすぐれている短歌の一つですが、この歌で、読者の前に〈神〉が姿を見せるのは、〈THE〉が消えるその一瞬だけです。だから、この歌は僕を惹きつけるのだと思います。〈神〉は〈役割を果たす〉だけで、どこにも存在しない。
詩人は〈神〉ではないし、歴史も〈神〉ではない。もっといえば、詩人も歴史も存在しません。稲川方人の言葉を借りれば、〈詩はキャリアではない〉からです。ここには、人間しかいない。
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僕は今だけ、あなたが何を言っているのかわかる。あなたは今だけ、僕の声が聴こえる。神はこの部屋のどこにもいない。
ここには初めから、僕とあなたしかいない。
2022.10.15 青松輝
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