詩の到来、その素描
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「完璧な詩」は予期されるばかりで、現実のものとして僕たちの前に到来することは少ないようだ。
ある一個の表現ジャンルを意味する「詩」という言葉とは別に、それらの核心のように語られる、イデア的な「詩」が何を意味するのかを、この1年ほどいつも考えてきた。たとえば「詩的」とか「詩性」というときの「詩」がそれだ。
朗読をかさねやがては天国の話し言葉に到るのだろう
(佐々木朔「往信」/『羽根と根』創刊号)
この名歌で、予期されながら実現しない「天国の話し言葉」は、僕がこれから話題にする、ロマンティックな「詩」のイメージと重なる。この歌の美点は、決して到来しない「詩」≒「天国の話し言葉」を期待しながら「朗読をかさね」つづける、下界の僕たちの涙ぐましい寂しさに、つまるところ行き着くのだろう。
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予期されながら実現しない「詩」。それを希求する涙ぐましい努力が、現実のジャンルとしての「詩」を駆動している。「詩」がけっして到来しないという合意のもとでのみ、僕たちは「詩」を書き続けられる。完璧な「詩」が到来してしまったら、もう「詩」は書かれる必要がない。僕たちは、到来することのない「詩」を、それが到来しないと知りながら、甘美な夢に見続けている。
歯医者(デンティスト)にゆく朝などを、永遠に訪れないものの例として
(穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』)
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この「絶対に到来しない詩」というモチーフは、容易に現実の他者(たとえば花や雪や鳥、恋人、美しく手の届かない誰か/何か……)と結びつきうる。つまり、「絶対に到来しない詩」≒「絶対的に神秘的な、未知の他者」という図式だ。
「完璧なあなた」を言祝ぐべく発され、空回り続ける「詩」の言葉。神秘的なミューズは、花や鳥に、友達に、「きみ/あなた」に、ネコに、色々な形に姿を変えて、僕たちの言葉に現れる。「神秘的で自由な存在」として言祝がれると同時に、「美」という権威的で歴史的なシステムに、ペットのように、包摂されていく。
ネコかわいい かわいすぎて町中の犬にテニスボールを配りたくなる
(宇都宮敦『ピクニック』)
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僕を含め、詩を書く者、もしくは言葉を用いる者のすべてが当事者だと言っていい。「詩」は、仲間の歌人を「僕たちのミューズ」だと言ってしまう無神経さとも関係がある。つまり、危険だ。
「美しい」「詩」を書こうとする誰もが、すでにこの暴力の川に、両足を浸している。書いても書いても書ききれない、エモーショナルな「あなた/きみ」が、すでに、ここに立たされている。
奪ってくれ ぼくの光や音や火が、身体があなたになってくれ
(阿波野巧也『ビギナーズラック』)
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自由詩の長い1行は、その構造をもっと分かりやすく示してくれる。
きみは親友、きみは詩の親友、ぼくよりも烈しい炎、ぼくよりも澄んだ水難、ぼくよりも高い竜巻。
あらゆる戦いの発端に、一切の容赦をせず敗れ去ることで、戦いを永遠の方へ引き延ばす。敵に一指も触れさせぬまま、滅しにくる者を滅ぼす、驚異の螺旋の貫徹。きみは詩の親友、そして不幸にしてわが妻。
(平出隆『雷滴』)
平出隆は僕にとって特別な詩人だが、その平出が「詩」を「きみ」というモチーフと一体化させて書く姿勢は初期から一貫している。デビュー作「花嫁」はその分かりやすい例だ。
花嫁
緑のトカゲを快晴の断崖へと走らせる命令のその花を読め。
花嫁
海を掠奪した風の妊娠、樹木からのそして花からの解毒・解読。
(「花嫁Ⅱ」/『平出隆詩集』)
平出の詩が「花嫁」からの単なる「詩」的収奪だというつもりはない。引用のとおり、平出は『雷滴』で「きみ」に、「きみは詩の親友、そして不幸にしてわが妻。」と書いた。「不幸にして」……どう受け止めればいいだろう。
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僕たちは「詩」を無限に遠いところに予期することで、絶対に到来しないその「詩」から、あらゆる利益を創出できる。それは、終わりなき月額課金を迫るNetflix、放射性廃棄物を吐き出し続ける原子力発電所、モダンな生の、さまざまな意匠に似ていた。
近代的な生/社会において、その「まったき他者」の位置を与えられているのは「死」あるいは「絶滅」なのだろうが、言葉の中央集権的なシステムは、花や鳥や光に、そして「きみ」に、神秘的で詩的な、美への供物≒詩の代行人≒死者、の立場を与える。「きみ」は「詩」のために身ぐるみ剥がされ、しかし僕たちの言葉は「きみ」を完全に捕捉し得ず、涙に濡れて僕たちは「きみ」を見送る。
「きみ」を知ろうとすることは許されない。「きみ」はあくまで神秘。その構造に抵抗しようとして、堂園昌彦は「残像のあなた」と出会った。
残像のあなたと踊り合いながらあらゆる夏は言葉が許す
(堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』)
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「ミューズ」になるのが現実の人間でなく、フィクションの世界の「詩的なもの」ならそれで構わないのだろうか。僕にはそうは思えない。花であれ、鳥であれ、光であれ、同じことだ。光を疑わなくてはいけない。花を、鳥を、疑わなくてはいけない。
神秘的な「きみ」がいるから、「きみ」と同一化する「完璧な詩」が書けず、今ここの詩の言葉は空転していく。そこまでを作者に見越されて、空転のために空転させられる言葉。それは間違っている。
立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ
(木下龍也『君を嫌いな奴はクズだよ』)
嘘をついてもよかった。誰も気付かないから。嘘をつかれる「きみ」の孤独を、神秘の炎に焼かれる「きみ」の痛みを、誰も気にかけはしなかった。だから僕たちは「きみ」から奪うことができた。「きみ」が何も言わない間に、僕たちは良い詩人になれた。
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これらの短歌の構造は、倫理的には、やはり誤っている。相手が誰であれ、コミュニケーションの可能性を捨てた地点で演じられる「美」は、読者と作者のために他者を犠牲にする奴隷制度だ。
詩の到来を諦めてはいけない。遠くのあなたを神秘化してはいけない。あなたを知ることができないことを、受け入れてはいけない。あなたは詩的でなくていい。きみを詩にすることは間違っている。敢えてはっきりと、そう言いたい。
だが、残念なことに、この原稿で引用した詩と短歌の多くは、僕の好きな短歌なのだ。
2月5日の夜のコンビニ 暴力を含めてバランスを取る世界
(永井祐『日本の中でたのしく暮らす』)
僕たちは言葉を使って暴力を振るうことを、自ら選んでいる。
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整理しよう。
僕は今ここで、あなたと倫理的に関わりたい。しかし、詩という暴力装置を通してあなたを書くことを、捨てようとも思えなかった。
「僕」は詩のなかで、「きみ」に暴力を振るう。しかし、同時にその可能性が、詩の喜びを基礎づけてもいた。
詩に並走する暴力と、詩の中だけの喜びの両方が、僕とあなたの間にある。どちらも捨ててはいけない。そう感じる。
詩の到来、それはどうでもいい。今すぐ来てもいいし、永遠に来なくてもいい。今ここで、あなたと僕のために、言葉が存在する。僕があなたに書くことは、詩であり同時に詩ではない。切り裂くような矛盾の中で、震えながら立っていたい。
いつか詩の、求心的でカルト的で暴力的なシステムに、同一化してしまう前に。いつかあなたを傷つけることを、知らないでいることを、開き直ってしまう前に。書くことが、詩を傷つけることが、面倒になってしまう前に。
晩年は神秘主義へと陥った僕のほうから伝えておくね
(佐久間慧「風も吹く」/『早稲田短歌』40号)
伝えておくね。
(2021年3月17日 青松輝)
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以上が、2020年11月に個人誌「demotape」に初出のエッセーの本文になります。細かい表現は一部変更していますが、内容はそのままです。
以下は、2021年春に書いた補足が長く続きます。おもしろい内容のつもりですが、多いので最後まで読むのは大変です。上のエッセー本文を最後まで読んでくれた方は、ぜひTwitterなどで拡散してください。
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(補足1)
原稿を自分で読み直して気付いたが、このエッセーで使った「詩」「暴力」「死」「愛」といったモチーフを雑に「わたくし」に引きつけるような語り口は、藪内亮輔の短歌の影響を受けている。自分の批評が大して年の変わらない歌人の作品をなぞっているとしたら怖いが……。
春が深い/わたしの連作の〈あなた〉はいない/燃えてください。
具体的な相聞をよむつてキモいなあ、うそうそ、皿に花梨をよそふ
(藪内亮輔『海蛇と珊瑚』)
『海蛇と珊瑚』については、ネット上では京大短歌の二人(牛尾今日子さん、田島千捺さん)の「現代短歌よもやま話」 や、石井大成さん、その他にも多くの方がnoteなどで取り上げているので興味がある方は読んでみてください。
(補足2)
このエッセーを書いたあと、2020年12月ごろに現代詩文庫で『天沢退二郎詩集』を読んだが、巻末の天沢のエッセーは、僕が本文で仮想敵にしたような立場をそのままとっていて興味深かったのでメモしておく。
まことに多くの人びとにとっての平均的で同時に個別的な詩の観念がある。しかし私にはいっさいの対象化に逆らう本質が詩にはあるような気がしてならないのだ。ほんとうは詩について語ることはできない。できるのは詩を生きることだけである。
○○について語ることはできない……ふーん
そして詩は、存在したり存在しなかったりするものではない。主題に仕える精神たちには捉えることのできない真の詩は彼方にあって到達しようとしてもとうてい到達できないもの、やってくるもの、起るもの、不意打ちの律動的なハプニングである。
(同上)
「真の詩」「到達できない」か……って感じですね。このような、いわゆる「否定神学」(?)的な感覚は、日本では小林秀雄以来の「批評」というマジックワードにもついて回るノリですよね。日本の「詩」と「批評」の、生き別れたきょうだいのような関係性についても可能なら何か書いてみたいです。
(補足3)
こういった「僕」と「きみ」的な舞台設定での作品を考えるときに、ゼロ年代/セカイ系(初谷むいに「sekaikei00」という副題の連作があるのも思い出される)の話題は外せないんだろうけど、この辺は勉強不足でよくわからない。とりあえず最近はRADWIMPSをよく聴いてます。エヴァも本腰入れてちゃんと見たい。
僕にないものばかりで 出来上がった君だから
君の全部がほしくたって いけないことなんてないでしょう?
(補足4)
というか要するに、本稿で話したことってシンプルな「ロマン主義」の図式ではないか?とも思われる。「ロマン主義」特集の現代詩手帖から引用してみる。
(1)ロマン主義の基本的所作は次の二つである。
一度として存在したためしがないもの(全体性、単一性、純粋性等)を、失われたものとして表象すること。
この「失われたもの」、この根源、この源泉を、想像的に「回復」すること、その際、それを感覚的なもの(情動的なもの)への価値配分、言い換えれば美的なものの(再)構築を通じて、つまるところ広義の芸術を通して「回復」すること。
(2)この美的なものの再配分は必然的に政治的である。
なるほど……という感じ。 この図式では「再配分」が歴史を駆動している以上、表現のレベルでは前衛的なものこそが、「美的なものの再配分」≒歴史にとっての「保守」になる、という逆説は面白いのではないかと思います。つまり。トガった作品を書いている人はトガっているようで「短歌」の歴史に対して一番効率的に奉仕している役人だともいえる、ということです。
あるいは、穂村弘の「愛の希求の絶対性」というキーワードも思い出される。(「『絶対的な愛』の希求」とは言っていないことに注意をする必要があるかもしれないが。)
愛の希求の絶対性って何かっていうと、あれは結局愛の不可能性のことをいっているじゃないかっていうのは全くそのとおりで、非在のものへの憧れっていうのはそれが顕在化した時点で止まるわけです。具体的にいうと素敵な恋人っていうものを夢見ているとき、素敵な恋人が現にできたら、そこでそのモチーフはストップするでしょ、わかりますよね。
(「穂村弘インタビュー」/『早稲田短歌』32号)
この穂村弘の図式はまさに「ロマン主義」の図式そのものだといってよさそう。この話と関係なく、この穂村弘のインタビューはこの当時の穂村弘のキレキレ(あたおか)感がすごいので必読です。
さっきの補足と合わせると、じゃあセカイ系って近代ロマン主義のシンプルな子孫なんですか?みたいな疑問もわいてくるけど、自分の力量ではもうちょっと時間をかけて考える必要がありそう。
(補足5)
初録の「demotape」の編集後記にも書いたが、本文では男性の作家の作品ばかり引用している。これは意図的なもので、いわゆる「口語短歌」の枠の中で「男性」の歌がどのようなアングルで書かれているか、ということに喫緊の自分の興味はあります。たとえば、最近の若手の批評や、笹井賞の審査員への登用などもありいわゆる「さいきんの口語短歌」っぽい書き方が永井祐と過度に同一視されている感があるが、男性作家に限っても、斉藤斎藤、宇都宮敦、もっと言うなら枡野浩一など考えるべきことは色々ありそうだ、とか。いや、自分で「世代論でない「ポスト」」とか書いといて申し訳ないけど。
あるいは男性の短歌の文脈で「イケメン風」な手つきがどのように利用されるのか(暴力性や権力性、あるいはその反転としての弱さ可愛さなど……)にも興味があります。今回引用しなかった作者の短歌で「男性的」だと思って気になっているのはこの辺り。
手に負えない白馬のような感情がそっちへ駆けていった、すまない
千種創一『砂丘律』
愛ありき。その愛が君のかたちをとろうとしてるけど、それでいい?
斉藤斎藤『渡辺のわたし』
ソビエトが抒情してゐるわれはただ梨の憂ひをほほばってゐる
荻原裕幸『あるまじろん』
そしてこの「男性」と「短歌」という関わりを考えるとき、本当は「都市」と「抒情」という二つのテーマについてもっと書くべきことが残っているように感じます。
(補足6)
この原稿の最後の段落で、それまで詩のなかの二人称をさす言葉として使われていた「あなた」は、この原稿の読者の「あなた」へ、自然とスライドしてしまっている。そういう詐術が「使えてしまう」ことがおもしろさだなと再読してつくづく思った。
(補足7)
さらに話がそれるが、ここで気になるものに2010年代の「推し」概念がある。アイドルに使われていたころの「推し」じゃなく、最近カジュアルに使われてる意味での「推し」。たとえば「何をしても遠くから見ていられる、尊い推し」だったはずの人間を、簡単に「推し変」できるわれわれは、無責任ではないのだろうか?
(補足8)
ネコの話で思い出したこと。「猫になったんだよな君は」というサビの曲が流行ったけど、見た目が可愛いからってみんなでネコを愛でてネズミは無視するのは悪い意味でのルッキズムとなにが違うのか、僕はいまいち理解できず、気持ち悪いなと思ってしまう。
日頃飼うなら可愛いほうがいいのはわかるけど、動物の可愛さでバズろうとしてみたり、いい短歌を書こうとしてみたりするのって結構デリケートな話だと思う。短歌にするくらいならまだしも、ネコで再生数稼ぐYouTuberとかになるともうマジで大嫌いです。
(補足9)
「だが、残念なことに、この原稿で引用した詩と短歌の多くは、僕の好きな短歌なのだ。」とか書いたけど、普通に嫌いな短歌も混ざってます。引用した歌全部好きだと思わないでください。また新作の批評書けるように頑張ります。