アオマツブログ

青松輝(あおまつ・あきら)。短歌・批評など。Twitter:ベテラン中学生、YouTube:ベテランち。

みじかい短歌原論

 

※2021年夏、23歳のときに書いた文章です。iPhoneを整理していたら出てきました。

 

 みじかい短歌原論を書こうと思う。いま僕が作者として書こうとする短歌がどのようなものか、端的にまとめたものだ。

 「良い短歌」を短いことばで定義づけようとするのは危険なことだが、歌人として高いレベルの作品を多く作っていくなら、何らかの方法意識が(意識的であれ、無意識的であれ)必要なのは明らかだろう。自分に今ある方法論(のようなもの)を、すぐに忘れてしまいそうだからここに残しておく。


①読者

 作品は読者のために書かれる。作者のために書かれた作品を僕は信用しない。

 たしかに、僕の創作と、それにまつわる時間は、自分の人生を救ってくれている。だが、それは作品の良し悪しとはまったく関係がない。

 作品はあくまで徹底的に他者に向かって書かれる。僕と作品との関係は、あくまで僕の中の問題であって、僕の作品が果たすべき役割は、世界の方にしかない。


②マッサージ

 マッサージのような作品は書かれる必要がない。短歌のそれに限らず、作者というのは読者のツボを押そうとする生き物で、短歌にも〈ツボ〉のような何かがあり、それは歴史的に生成・継承され続けいる。

 そして、そのような共同体の内部での欲望の発露と充足のサイクルは、自分には気持ち悪いものだと思える。正解不正解の話ではなく、生理的な話として。そして、だからこそ、自分は短歌という狭いジャンルでの表現をわざわざ選んでいるのかもしれない、とも思う。

 いずれにせよ、まだ読者の知らないツボを押せる作品以外は書かれる必要がない。その新たなツボも、時代とともに古びていくのだとしても。


③圧力

 短歌の定型は、ある種の同調圧力だと考える。自分は定型を、作者や読者が回帰してゆくべき神聖なもの、としては捉えてこなかった。

 短歌の読者や作者が、短歌定型というものの強固さに救いを見出すことができる、という事実はもちろん認める。だからといって、どうしてもいつも短歌の定型を守りたいとは自分には思えない。

 とにかく詩は、あらゆる同調圧力や不自由に永遠に抵抗し続けるものでなければならない。

 

④僕

 歴史的に短歌は一人称の文学とされ、その大きな積み重ねのなかで、新たなかたちで、一人称的に何かを書くことは非常に難しい。だからこそ、正面からその課題に向き合う必要がある。

 たとえば、歌のなかに一人称が登場していながらその一人称性にバグを起こすような短歌が、〈僕〉によって書かれる。

 短歌が〈僕〉を記述するのではなく、記述された短歌に沿って、〈僕〉自身があとから動く。つまり僕は短歌を通して〈僕〉を改造してゆく。

 

⑤裏切り

 書いてきたとおり、〈ツボ〉や〈定型〉、〈一人称性〉に代表されるような〈一個のもの〉、あるいは共同体、を裏切るような短歌、というのがこれまでの自分の作歌のライトモチーフだった。

 語彙のレベルでは、つねに〈良い短歌〉的ではないモチーフ、あるいは過剰なほど〈良い短歌〉的すぎるモチーフが探され続けてきた。一首の構造の上でも、短歌というゲームのルールを裏切るような一首を作ることがつねに念頭におかれてきた。

 しかし、その「裏切り」すら、共同体を温存するために要求された、ある種の共犯者であるということを忘れるべきではない。

 

⑥直接性と抒情

 短歌の言葉の中に、作者にすらコントロール不能な、ある種の物質性をもったことばが出現し、そこを起点にして読者の世界も切りひらかれていく。それが僕にとっての詩だった。

 そして、今は単に、世界に起こっていることを記述し抒情するだけでは、あまり意味がない気がしている。

 抒情を抒情するような作品、そのようなものを書かなければならない。

 僕の抒情が世界を作り変える。抒情が抒情を生み出す。愛が愛を生み出す。自分が抒情してしまうことを僕は抒情する。世界が世界を書き換え続けるように。だから僕はどこへでも行けるし、僕を起点にして世界が裏返ることだってありうる。

 

⑦痛み

歌は痛み、痛みこそは歌。

 

(了)