アオマツブログ

青松輝(あおまつ・あきら)。短歌・批評など。Twitter:ベテラン中学生、YouTube:ベテランち。

4、3、2、1、死の装置

 

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 生まれてから死ぬまでの限られた時間のうちいくらかを割いて、あなたは今、ここで僕が何かを語りだしているのを見ている。

 あなたが人生のなかで読める文章の数は決定的に限られているし、ひとりが死ぬまでに書けることもおそらく限られている。

 そういうわけで、僕にはすでに、あなたの限られた時間に対する責任があり、その責任をできるだけ重く受け止めたうえで、僕は、あくまで自分自身の短歌を引用することから、この文章を書きはじめる。

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数字しかわからなくなった恋人に好きだよと囁いたなら 4
-青松輝「4」(『文學界』2022年5月号)

 『文學界』2022年5月号:特集「幻想の短歌」に寄稿した、僕のこの短歌について、まほぴさん(岡本真帆さん)が以下のツイートを書いている(嬉しかった)。

 その後、このツイートに触発されて、いくつか考えた事がある。

 これから、上記の自作を含むいくつかの歌を読みながら、自分にとってどのような短歌がおもしろいか、どのような短歌にこれから可能性があると思うか、を述べる。この記事を読んだあとでも構わないから、機会があれば「文學界」5月号も入手して読んでみてほしい。

 また、都合上、この記事では自分自身の短歌の作歌の意図や経緯に多少触れることになり、不粋に思う方もいるかもしれない。ただ、今の自分は、誰かに楽しんでもらう可能性のために、それくらいの犠牲は払うことができる。

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可能性。すべての恋は恋の死へ一直線に堕ちてゆくこと
-穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

 いつも死によって、可能性は裏打ちされている。

 

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 まほぴさんから「4」の歌を褒められたのは、単純に嬉しかったが、なるほど、と納得した部分もあった。というのも自分は、まほぴさん(以下、岡本)の

3、2、1、ぱちんでぜんぶ忘れるよって今のは説明だから泣くなよ
-岡本真帆『水上バス浅草行き』

 という短歌が好きで、影響をうけた部分があるからだ。歌の形も、初句「3、2、1、〜」と、結句の「〜4」で対照的になっている。「3、2、1、」から「4」へ。ここから、これらの2首のつながりを手短に考えてゆく。

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 私見だが、木下龍也『つむじ風、ここにあります』(2013)、岡野大嗣『サイレンと犀』(2014)以降、何か一個の見えやすい設定や発想があって、シンプルな口語でそれを切り取る、という方法論が短歌の書き手のあいだで明確に発見された。

鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい
-木下龍也『つむじ風、ここにあります』

生年と没年結ぶハイフンは短い誰のものも等しく
-岡野大嗣『サイレンと犀』

 これらの歌は、〈視点/仕掛け〉が核心にある。一首の中にあるアイデアを軸に、読み手の思考が動かされるタイプの歌だといっていいだろう。誰かの感情、あるいは視覚的なイメージ、を追体験するような形の歌ではない。木下・岡野と同じくナナロク社から歌集を出した岡本の短歌にも、この流れに位置付けられるものが多い。

犬の名はむくといいますむくおいで 無垢は鯨の目をして笑う
ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし
-岡本真帆『水上バス浅草行き』

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 そして「3、2、1」には、これらの歌の先を行く、先駆的な要素がある。それは「ぱちん」で「忘れる」というファンタジックな設定と、それに対する説明の排除である。

3、2、1、ぱちんでぜんぶ忘れるよって今のは説明だから泣くなよ
-岡本真帆『水上バス浅草行き』

 この歌の「ぱちんで忘れる」という設定は、ほぼ完全に外部のサブカルチャーのイメージから輸入されている。たとえば工藤新一のような雰囲気の、「泣くなよ」といっているクールな登場人物の画が見えないだろうか。

 パラレルワールドなのか、タイムリープなのか、「アニメの別れのシーンっぽい」というイメージだけが共有され、具体的な説明は殆どない。にもかかわらず、だからこそ、想像が掻き立てられる。

 この歌からは〈仕掛け〉(=ここでは「説明だから泣くなよ」という一種のあるあるネタ)を正当化する背景(=ここでは「忘れる」という設定)が、いっさい取り除かれている。読者が読むのは「3、2、1、ぱちんでぜんぶ忘れる」世界での、ありそうな台詞だけだ。

 歌の内部で、「忘れる」人と「説明」する人の関係性や、「忘れる」ことのルールを何も説明してくれない、この寄る辺なさが、この歌の切なさや煌めきを加速させている。そこがこの歌の刺激的なところだ。

 

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 上記のような〈設定/仕掛け〉を意識しながら 「4」の短歌は書かれている。もう少しこの短歌の周りをうろうろするから、ついてきてもらいたい。

数字しかわからなくなった恋人に好きだよと囁いたなら 4
-青松輝「4」(『文學界』2022年5月号)

 もともとの作歌の動機を考えると、この短歌は、自分が他人との恋愛の過程で、ディスコミュニケーションを実際に感じた経験を大いにもとにしている。

 この「ディスコミュニケーション」は僕にとって一大テーマといってよく、そのような内容を書いた短歌は、「4」以前の作品のなかにも多くあった。

生きててくれればいいよと言った、本当はそうじゃないけど、そう言いました
-青松輝「tender」(『のど笛』)

花と器 悪意のことを言いながらきみの硝子の喉はしずかだ
-青松輝「魔法的/暴力的」(Twitterから)

 しかし作者の実感として、過去に作ってきたこれらの歌には、一つ問題があると感じていた。それは、このような内容はあくまで〈僕〉の悲しみの「記述」であって、これらに感情移入してもらったとしても、読者は「ディスコミュニケーションの観察者」でしかない、ということだ。

 「ディスコミュニケーションの記述を読むこと」と「ディスコミュニケーション」は違う。読者は〈僕〉を、ただ安全な位置から見ていればよい、というわけだ。

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 そこで持ち出されるのが「4」である。この短歌で僕は、読者を巻き込んで当事者にさせたかった

数字しかわからなくなった恋人に好きだよと囁いたなら 4
-青松輝「4」(『文學界』2022年5月号)

 この短歌が描いている状況はシンプルで、簡単に読み取ることができる、数字の「4」の具体的な内容を除いては。

 「数字しかわからなくなった恋人」に、「好きだよ」と囁く。囁いたのを〈僕〉だとするなら、「恋人」は〈僕〉の「恋人」だろうか。ここまでは単なる「設定」と「状況の説明」である。

 では「4」とはなんだろう。恋人が「4」と返事をしたのか、あるいは「4」は一種のナレーションなのか。恋人は「好きだよ」という囁きの意味を理解しているのか。そもそも「4」にはどのような意味が込められているのか。

 それは、作者である自分にもわからない。わかりようがない。もちろん〈狙い〉はあっても、正解はない。僕にとってこの「4」は、読者に何かを伝えるための「4」ではなく、読者と一緒に向き合って考えられる素材としての「4」だといえる。

 「4」は、直接的に、謎を含んだものとして、読者に投げかけられている。ディスコミュニケーションについて書いた歌そのものが、読者とディスコミュニケーションを起こしてしまう、という構造が必要だった。その意味でこの短歌は、薔薇園の絵ではなく、薔薇園の模型に近い。

 この構造は、じつは「3、2、1、」の歌とも共通している。

3、2、1、ぱちんでぜんぶ忘れるよって今のは説明だから泣くなよ
-岡本真帆『水上バス浅草行き』

 書き出しの「3、2、1、ぱちん」の部分は、登場人物→登場人物の台詞であると同時に、読者であるわれわれにも、カウントダウンとして直接さし向けられている。われわれは韻律のリズムに合わせてカウントダウンを復唱することを強制され、「ぜんぶ忘れる」ことを想像して泣くのは、作中の登場人物でもあり、私たちでもある。

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 以上のように、「3、2、1、」の歌と「4」の歌はともに、作中の〈仕掛け〉を手がかりに、作品の中に没入するという、単に作中主体の感情への共感や、情景の追体験、などとは違う構造を持っている。言い換えると、これらの歌では〈作中主体〉のフィルターを経ずに、直接的に作品の中の世界を体験できる。

 このような短歌を、僕は〈アトラクション装置〉的な歌、と呼んでいて、この方向に短歌の大きな鉱脈があるのではないかと思っている。ディズニーランドの乗り物やジェットコースターなんかをイメージしてもらいたい。

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 あと少し、具体的な歌を取り上げて〈視点〉の歌と〈アトラクション装置〉の歌について考えてみよう。

邦題になるとき消えたTHEのような何かがぼくの日々に足りない
-木下龍也『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』

 この短歌は〈視点〉+〈一人称〉のつくりを取っている。キャッチーな秀歌だと思うが、この歌はまだ「ぼく」の「あるある」を納得させる仕組みを採用しており、〈装置〉として使うには不十分だといえる。読者は「何かが足りない」という事実に、本気で向き合う必要がない。

倒れないようにケーキを持ち運ぶとき人間はわずかに天使
-岡野大嗣『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』

 だが、この歌ではもはや、天使になるのは「わたし」でも「作者」でもない。この歌は〈誰もが短歌のなかで天使にされてしまう装置〉であり、アトラクション的だ。

 このような〈装置〉の歌は、単純化していうなら、〈僕〉という道具を必要としない。ここでは説明を省くが、〈僕〉という一人称は、男性的に透明化された身体や眼を表現するために使える、マジョリティ性を抱えた道具だといえる。そのような一人称性に伴う暴力やエラーを起こさないのが〈視点〉+〈三人称〉的な歌の強みだといってよい。

 だからこれらの歌は、多くの人に、等しく速いスピードでの没入をもたらす。

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 ただし、もちろん、このような歌にも弱点はある。〈僕/わたし〉という一人称の装置を外したとしても、これら〈装置〉が短歌である以上は、多くの場合でまた別のマジョリティ性に依存してしまう。

 たとえば岡本の「3、2、1、〜」で、〈僕〉という装置にかわって持ち出されるのが、外部のサブカルチャーからの引用である以上は、なんらかの集団で共有された共通理解を利用し、読者を何らかのシステムのコードに同化させる力を持つ。「4」における、「恋人」のイメージの利用についても同様だ。

 見やすい設定、あるいは短歌のなかの〈視点〉という技術は、これまでにない爆発力を現代短歌にもたらした。

問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい
-川北天華

誰ひとりきみの代わりはいないけど上位互換が出回っている
-宇野なずき『最初からやり直してください』

 このような歌は、多くの人に開かれていると同時に、危険な装置でもあると感じる。誰にでも歌えて誰にでも同じように美しく響く歌。そのような歌をわれわれはどこかで見たことがあるはずだ。

我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで
-よみ人知らず

 同一化ほど気持ちがよく、同時に危険なものを、2022年のSNSの私たちはまだ見つけられていない。バズより怖いものはない。

 

 4

 死ぬまでのあなたの限られた時間のうち、いくらかを与えられて、この原稿はそろそろ終わろうとしている、それを読んでいるあなたを、なにか言いながら僕が見ている。

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 さて、ところで、では、上述の〈誰でも乗り込める装置〉のような短歌を作るのは、なんのためだろう。勿論、作者それぞれに意図があるはずだし、読者それぞれに感想はあるだろう。

 しかし、あえて、いったん僕なりの答えを出すとするなら、みんなにわかってほしいから、だと思う。ただ記述するのではなく、「3、2、1、」あるいは「4」というものの物質性を通して、読者に追体験させることでしかわからない何か。

 なぜ、わかってほしいか。それはやはり、いつか死ぬから、だと言わざるをえない。死ぬ前にもっと再生数を、もっとハートを、もっと共感を。

 われわれは(間違いなく)(100%)確実に、最後には死んでしまう。にもかかわらず、死の実態はつかみようがない。生きている人は、誰も死を知らない。死んだことがないから。

 だからこそ、これまで取り上げた〈仕掛け〉の歌では、仕掛けの素材として死というモチーフが頻繁に利用されてきた。岡本の歌の「忘れるよ」も、限りなく死に近いところにある。

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 死というものの、ある種の否定神学的な〈わからなさ〉が、われわれの詩や愛をいつも神秘的にしてくれている、と思う。そして同時に、そのような〈わからないもの〉のことを書き続けなければならない、われわれ自身の姿を、高いところにある神さまのような視点から、哀れんでみたくもなる。

 このような死の問題、絶対に訪れることのない未来を書こうとすることの問題は、前稿「詩の到来、その素描」における〈詩〉の扱いとも関連してくるように思うが、今はまだ、その図式を暗示することしかできない。

 

 死、

可能性。すべての恋は恋の死へ一直線に堕ちてゆくこと
-穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

 

 詩、

数字しかわからなくなった恋人に好きだよと囁いたなら 4
-青松輝「4」

 

 4、

3、2、1、ぱちんでぜんぶ忘れるよって今のは説明だから泣くなよ
-岡本真帆『水上バス浅草行き』

 

 エンディングの音楽が流れる。今のは説明だから、文章は終わるけど、われわれはまだ生きている。で、死んだらどうなる?


  青松輝 2022.4.15

 

 

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