アオマツブログ

青松輝(あおまつ・あきら)。短歌・批評など。Twitter:ベテラン中学生、YouTube:ベテランち。

別のところでみる夢-丸田洋渡試論

 

詩は世界と世界にあるすべてのものを明示すべきなのである。わたしたちにものを与えるためでなく、わたしたちからそれを奪うために。
-ジャン=ポール・サルトルマラルメ(1842−1898)」

 

1.夢の時代、生活の時代

 自らの遅れてきた第一歌集で、あつかましくも「短歌はふたたびの夢の時代に入った。」と宣言してみせたのは平岡直子だったが、じっさいのところ、〈夢〉と向かい合って短歌を書くことのできる書き手は、ごく限られている。

 そして現在、その〈夢〉とは逆に、〈生活〉は現代短歌の必須アイテムだといっていい。テン年代の短歌を語るキーワードをいくつか選ぶなら、多くの人がそのひとつとして〈生活〉をあげることになるだろう。

 もちろん、短歌自体が〈生活〉と密接な関係をもつジャンルであることは言うまでもない。自分の短歌を読ませるための強いカードとして、つねに〈生活〉は重宝されてきた。しかし、この10年の短歌、とくに口語性を押し出した短歌において、高いレベルで「あえて生活を選ぶ」という雰囲気の作品が多く見られたことも、また間違いないように思う。

 永井祐「日本の中でたのしく暮らす」、山階基「風にあたる」、初谷むい「花は泡、そこにいたって会いたいよ」、阿波野巧也「ビギナーズラック」……。直近の例なら岡野大嗣や岡本真帆、上坂あゆ美など、多くの作者の歌集が世に送り出された。

 この現象の要因はさまざまに考えられる。笹井宏之/飯田有子/我妻俊樹など、ポストニューウェーブの中でもポエジー寄りの作家たちの評価が行き届いていないこと。あるいは逆に「永井祐的」ともいわれる、フラットな口語を使った方法論が、一部の作者コミュニティのあいだで洗練されながら一般化していったこと(この辺りの事情は瀬戸夏子「はつなつみずうみ分光器」でも「近代短歌への回帰」として語られている)。

 しかし、この現象を方向づけるうえで大きな役割をはたしながら、公にはあまり語られないものがある。それは何か、まちがいなく「新人賞」の存在である。

 短歌の新人賞。「角川短歌賞」「短歌研究新人賞」「歌壇賞」を三大新人賞とし、最近では「笹井宏之賞」「現代短歌社賞」なども存在感を発揮している。若い書き手を発掘する上で、短歌業界の制度を根底から支えているシステム。

 しかし、この新人賞のシステム設計こそが、我々の「短歌」の無意識を歪めているように思えてならないのだ。

 ※ここから、本稿ではかなり強い口調で新人賞を批判する。そのためにいくつかの短歌作品が仮想敵として登場するが、引用の目的は、個々の作品を叩くことではなく、全体のムードを切り取るところにある。短歌の書き手の無意識に浸透している偏りをこそ問題にするために多くの短歌を取り上げたが、それぞれ一首単位では引用に適うすぐれた歌を取り上げているつもりだ。

 

2.ハックされる新人賞

  短歌において、若い書き手が成り上がる手段は多くはなく、今でも短歌新人賞は定番のルートのひとつだといえる。「短歌新人賞の受賞作」はつねに、時代の望む短歌を代表する基準点としての役割を期待されてきた。

 しかし、歌葉新人賞の終了(2006年)から、笹井宏之賞の開始(2018年)までの期間、短歌の新人賞は冬の時代にあったように思う。審査員のメンバーはなかなか変わらず、若い書き手がつくる短歌のスピードに、新人賞が高く評価する短歌のスピードは追いついていなかった。

 たとえば短歌研究新人賞は、2009年に審査員を総入れ替えして採用した加藤治郎、栗木京子、穂村弘米川千嘉子の四人の審査員を(2019年に斉藤斎藤と交代させた穂村を除いて)2021年まで使い続けているし、角川短歌賞では、若い作者の歌を多少読み慣れている東直子が、他の審査員との読みのコードの違いにヤキモキする様子がバックナンバーで確認できる。

 そして、短歌を読む力を失ったロートルが審査する新人賞をハックするために、技術のある若手が多用したのが〈生活〉あるいは〈体感〉である。

できたての一人前の煮うどんを鍋から食べるかっこいいから
-平岡直子「光と、ひかりの届く先」

わたしがわたしを守ってあげる シャーペンの芯を多めに詰める
-武田穂佳「いつも明るい」

脱いでから今日は暑かったなと思う友達がデザインしたパーカー
-平出奔「Victim」

 むろんこれらの歌、一首一首の、作者や読者にとっての必然性を否定するつもりはない。ここで言いたいのは、既存の短歌新人賞のシステムが、若手の作風をある方向に偏らせている、ということだ。批判されるべきは、個人の資質ではなく制度であって、つまり、短歌業界の「制度」が、われわれの短歌自体までも制度的にしている。

 〈詩〉というものが、これまで世界に存在しなかった想像力を生成するものとして書かれる限り、それら〈生活〉や〈体感〉の存在は、短歌にとって自明ではない。

 

3.資源としての〈生活〉

 そして、審査員の人選の問題を解決して若返りを図り、新しい風を吹かせるかに思えた笹井宏之賞にも、そのような〈生活〉〈体感〉の強さは根強く残っている。

 最新の第4回笹井宏之賞の受賞作、個人賞の作、あるいは多くの応募作を読んでも、いまの〈現代短歌〉のマジョリティが、なにか形容しがたい一体感をもって、〈体感〉のほうにあることは疑いようがない。

 どこまでポエジーの精度・抽象度を上げるにしても、まずはいちど〈からだ〉や〈感覚〉をバウンドさせなければ、なにかを伝えることはできない、とでも言うかのように、ある種の同調圧力が〈現代短歌〉の無意識を形成しているように思える。

冷えた手で布団引き寄せ最近はサラダになりそうな夢ばかり
-椛沢知世「ノウゼンカズラ

 〈夢〉を呼び出すためのコストのように持ち出される、夢から醒めた意識のなかの「冷えた手」と「布団」。

夢の中ではジャズピアニストのものだった指で洗濯物をあつめる
-安田茜「遠くのことや白さについて」

 〈夢〉を説明するために、やはり持ち出される「洗濯物をあつめる」「指」。いつも〈夢〉はさいごに〈生活〉に戻ってきてしまう。われわれが生きているのがこの〈生活〉である以上、仕方のないことだろうか?

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 もはや、多くの短歌で詠われる「生活のリアリティ」は、大文字の「リアルさ」とは別のところにある。それはある種、短歌を一首成立させるために安全に共有可能な燃料になっている。「生活」の中のひとコマは切り取られ、短歌の資源として消費されるばかりだ。

 もちろんこのような現象はある程度しかたがない。たとえば歳も離れた審査員に対して、生活環境も、友人関係も、生育環境も、ジェンダー観も、景気も、すべてちがうにも関わらず、短歌という短い形式で意思の疎通をはかるなら、なにか強い〈共有可能な前提〉が必要になるだろう。当然、それは多くの場合で、「詩語」と「生活の体感」にならざるをえない。

 しかし、これは短歌の新人賞が抱える構造上の穴をハックするためのテクニックであって、短歌にとって、あるいは〈審査員たち〉ではない〈わたしたち〉にとってのいい歌がなにか、という問題とはまったく関係がない。

 

4.わたしたちがみる夢

 ここで、わたしがみる夢を、あつかましくも「わたしたちがみる夢」として明文化してみよう。

 提案はこうだ。夢の世界を、夢の世界としてそのまま描く。いったん「正気のわたし」を出てこさせて夢の話をさせる、という仕組みは使わない。直接きみが、わたしが、夢の世界を言葉にする。そのようなことが可能なのではないか。

 夢の話をすればするほど、確認され、温存されていく〈まとも〉な〈わたし〉。これは、多くの人が仮想敵にしてみたり、蜜月を演じてみたり、さんざんに振り回されてきた〈私性〉の言い換えだといってよい。

 このような〈わたし〉を起点にした、生活の延長上に〈夢〉を見させるような短歌が、〈夢〉の方程式として組み立てられるのであれば、それは嘘であり、〈夢〉をアリバイにした単なる現実の保全でしかないように思う。

 ことばを選ばずに言うなら、生活のなかで、ちょっとずらしたことを言って、手堅くポエジーを摂取しても、わたしたちの世界のあり方は何も変わらないということだ。

 わたしたちは短歌を書くとき、一首の中にまるごと一個の世界を作りだす必要がある。わたしたちは短歌を読むとき、書き手が作ったまるごと一個の世界を読み込む必要がある。 それはその短歌が内容的に幻想的であれ現実的であれ変わらずそうだ。私たちが知っている〈世界〉で、作品の〈世界〉を濁らせてはいけない。

 

5.FRIENDS -夢のひとつの世界

 そこで、丸田洋渡の短歌をわたしたちは読むことになる。2022年の現在、多くの人が丸田洋渡の短歌をなにか新しいもののように感じながら、その新しさを明瞭に言語化できていないのではないか。たとえば、一つの視点を〈夢〉だとしてみよう。

 ここで〈夢〉は、〈生活〉の途中でみるちょっとした幻とは、まったく違っている。生活を異化するために持ち出されるアクセサリーとしての〈夢〉は偽物であって、むしろ現状の世界の暴力的な制度を追認し、強化するだろう。

 わたしたちが眠りながらみる〈夢〉のなかで、わたしたちはわたしたち自身の生活を思い出せないまま、〈夢〉の中を彷徨う。このような〈夢〉は短歌のなかで作られうる。具体的な方法を言うなら、基準となる〈まとも〉な〈わたし〉に頼らず一首を構成すること、一首の中にまるごと一個の世界を構築することだ。

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書ける速さに想像を遅らせてダンサーのシーンを書き終える
-丸田洋渡「FRIENDS」

 丸田洋渡の連作「FRIENDS」は、そのような〈夢〉を構成するために捧げられた40首だとしてみよう。

光るなら夜に おとなしい友だちが蛍のように椅子に座った
-「FRIENDS」

 たとえばこの歌が、われわれが見慣れている短歌とは、その出自を異にするのがわかるだろう。〈体感〉を使って歌を作るためのセオリーは、前半が夢なら後半は体感に、前半が体感なら後半は夢に、という二分的な作りだろう。しかし、「光るなら夜に」と「おとなしい友だちが〜座った」の2つのパーツは、夢/体感といった二元的な区分にあてはめて読むことができない。どちらも、夢とも体感ともつかない、ある一個の共通のゾーンに置かれている。

 ここで表現されているポエジーは、〈生活〉を前提してそこから一歩はみ出してみせるような夢ではない。夢のなかでみる〈夢〉であり、目覚めたあとに正気に戻って思い出す夢ではない。

藤が人語を初めて話すときそれは垂れるように不完全だった
-「FRIENDS」

 この歌のなかで、作者と読者のあいだで共有可能なのは、「藤」の「垂れる」という形状と、「話される人語」の「不完全さ」が、その重力や時間に負けたディテールにおいて類似しているという、奇妙な納得感だけだ。

 この「藤」は、正しい世界のむこうに幻視されている「藤」ではなく、この世界のなかにしかない「藤」なのだと思う。一首のなかでだけ生まれ、短歌が終わるのと同時に、作者と読者のそれぞれの頭の中で殺されてしまう「藤」。作者はここで、あやうい「藤」を丸ごと作りだすというコストを支払っている。

海を見ている 火を裏返すと風のおかしなボードゲームのあとで
-「FRIENDS」

 この一首のなかでは、最初から「おかしなボードゲーム」は存在しており、この短歌を読み直すたびに、わたしたちは新鮮にこの「おかしな」世界に直面することになる。一首ごとに生まれ、消えていくそれぞれの世界。それが〈夢〉の世界だ。

 

6.GHOSTS -ゴーストのわたし

 そして同時期に発表され、「FRIENDS」と対になると思われる、連作「GHOSTS」は、短歌のなかでもちだされる〈生活〉、あるいは〈生活〉を強化するためにアクセサリー的に用いられる夢の意匠への批判として読める。「GHOST」とは〈生活〉のみならず、安物の短歌の中で簡単に呼び出されるゴーストめいた「わたし」、への皮肉を意味しているのではないか。

ともだちが夜が武器がそうさせたんだ わたしは気持ちよく銃を撃つ

わたしがわたしを演じだしたら終わりでしょ あーあ 河川敷で寝転ぶよ
-丸田洋渡「GHOSTS」

 丸田の認識のなかでは、ほとんどの短歌や詩のなかの〈わたし〉は〈わたしを演じ〉ているように見えているのではないか。短歌のなかで〈わたし〉を生活させている〈わたし〉は誰なのか。〈わたし〉と、〈わたし〉に〈わたしを演じ〉させている〈わたし〉。

すべての人のすべての想像の雪崩 一対一で話すのは初めて
-「GHOSTS」

 この歌では、歌のなかで簡単に演じてしまえる「わたし」と丸田洋渡の距離感があらわれている。わたしたちが想像できる(かのように思い込んでいる)手のとどく「すべて」とは程遠い、過剰なまでの全称。それは「GHOST」への疑いから露悪的に演じられているものだ。

 たとえば、直近の笹井賞から歌を挙げれば

なほもぼくは衝動買ふよその椅子と椅子にまつはるすべての日々を
-佐原キオ「みづにすむ蜂」

立っているからだが座るまでにある無数の座る以外の行為
-涌田悠「こわくなかった」

 これらの歌が、「すべて」「無数」などの全体性にまつわるモチーフを〈生活〉の延長線上の小さな範囲(椅子にまつわる日々-座るまでにある行為)に限定することで、見た目上のリアルさ(リーダビリティ)を担保しているのと対称的に、丸田の歌では、もはや誰も想像できず、書き手が責任を取ることが不可能なほど、莫大な「すべて」が指示されている。

 「すべての人」の「想像の雪崩」を「すべて」集めてくるという途方もないサイズの〈夢〉。この歌で丸田洋渡は、露悪的なほどに過剰な責任を負おうとする。しかし、〈生活〉の歌を手堅く作るときであっても、ほんらい短歌の作者は、なにか過剰なものを背負わなければならない。内容に関係なく、作品を書くというのはそういうことだから。

世界中のディスプレイにはギザギザのあなたのウィンクが流れつづける
-「GHOSTS」

 しかし、今でも多くの人が、短歌を「ディスプレイ」上で「ウィンク」を見せ合うものだと勘違いし続けているのだ。そして、丸田洋渡のせいで、その「ウィンク」はいま、わたしたちにはギザギザに見えている。

 

7.世界とその消滅

友だちA・C・D・Eが消えていく神話のような積雪の朝
-丸田洋渡「Stir/Scalet」

 わたしがいまここで、丸田洋渡の歌を評価するのは、なによりもまず、一首の中に一個の世界を立ち上げ、〈短歌〉そのものと拮抗しようとする作者の意思だ。

 わたしたちは短歌を読む上でも作る上でも、共有可能な前提やマジョリティ性を無数に持っており、そのすべてに自覚的にアプローチすることが可能で、それは「身体」や「体感」、つぶやくような口調に限られてはない。

白には黒が黒には赤が似合うから雪のピアノに三つの死体
-「birth」

 白と黒と赤。それらを思い浮かべた次の瞬間、ピアノと死体はあった。もっと書け、もっと短歌のなかで人を殺せ、この世界の〈死〉に対抗するために。書き手はその〈夢〉の世界、まるごとすべての責任を取れるはずだし、取る必要がある。

 

  2022.6.22 青松輝

 

 

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