アオマツブログ

青松輝(あおまつ・あきら)。短歌・批評など。Twitter:ベテラン中学生、YouTube:ベテランち。

別のところでみる夢-丸田洋渡試論

 

詩は世界と世界にあるすべてのものを明示すべきなのである。わたしたちにものを与えるためでなく、わたしたちからそれを奪うために。
-ジャン=ポール・サルトルマラルメ(1842−1898)」

 

1.夢の時代、生活の時代

 自らの遅れてきた第一歌集で、あつかましくも「短歌はふたたびの夢の時代に入った。」と宣言してみせたのは平岡直子だったが、じっさいのところ、〈夢〉と向かい合って短歌を書くことのできる書き手は、ごく限られている。

 そして現在、その〈夢〉とは逆に、〈生活〉は現代短歌の必須アイテムだといっていい。テン年代の短歌を語るキーワードをいくつか選ぶなら、多くの人がそのひとつとして〈生活〉をあげることになるだろう。

 もちろん、短歌自体が〈生活〉と密接な関係をもつジャンルであることは言うまでもない。自分の短歌を読ませるための強いカードとして、つねに〈生活〉は重宝されてきた。しかし、この10年の短歌、とくに口語性を押し出した短歌において、高いレベルで「あえて生活を選ぶ」という雰囲気の作品が多く見られたことも、また間違いないように思う。

 永井祐「日本の中でたのしく暮らす」、山階基「風にあたる」、初谷むい「花は泡、そこにいたって会いたいよ」、阿波野巧也「ビギナーズラック」……。直近の例なら岡野大嗣や岡本真帆、上坂あゆ美など、多くの作者の歌集が世に送り出された。

 この現象の要因はさまざまに考えられる。笹井宏之/飯田有子/我妻俊樹など、ポストニューウェーブの中でもポエジー寄りの作家たちの評価が行き届いていないこと。あるいは逆に「永井祐的」ともいわれる、フラットな口語を使った方法論が、一部の作者コミュニティのあいだで洗練されながら一般化していったこと(この辺りの事情は瀬戸夏子「はつなつみずうみ分光器」でも「近代短歌への回帰」として語られている)。

 しかし、この現象を方向づけるうえで大きな役割をはたしながら、公にはあまり語られないものがある。それは何か、まちがいなく「新人賞」の存在である。

 短歌の新人賞。「角川短歌賞」「短歌研究新人賞」「歌壇賞」を三大新人賞とし、最近では「笹井宏之賞」「現代短歌社賞」なども存在感を発揮している。若い書き手を発掘する上で、短歌業界の制度を根底から支えているシステム。

 しかし、この新人賞のシステム設計こそが、我々の「短歌」の無意識を歪めているように思えてならないのだ。

 ※ここから、本稿ではかなり強い口調で新人賞を批判する。そのためにいくつかの短歌作品が仮想敵として登場するが、引用の目的は、個々の作品を叩くことではなく、全体のムードを切り取るところにある。短歌の書き手の無意識に浸透している偏りをこそ問題にするために多くの短歌を取り上げたが、それぞれ一首単位では引用に適うすぐれた歌を取り上げているつもりだ。

 

2.ハックされる新人賞

  短歌において、若い書き手が成り上がる手段は多くはなく、今でも短歌新人賞は定番のルートのひとつだといえる。「短歌新人賞の受賞作」はつねに、時代の望む短歌を代表する基準点としての役割を期待されてきた。

 しかし、歌葉新人賞の終了(2006年)から、笹井宏之賞の開始(2018年)までの期間、短歌の新人賞は冬の時代にあったように思う。審査員のメンバーはなかなか変わらず、若い書き手がつくる短歌のスピードに、新人賞が高く評価する短歌のスピードは追いついていなかった。

 たとえば短歌研究新人賞は、2009年に審査員を総入れ替えして採用した加藤治郎、栗木京子、穂村弘米川千嘉子の四人の審査員を(2019年に斉藤斎藤と交代させた穂村を除いて)2021年まで使い続けているし、角川短歌賞では、若い作者の歌を多少読み慣れている東直子が、他の審査員との読みのコードの違いにヤキモキする様子がバックナンバーで確認できる。

 そして、短歌を読む力を失ったロートルが審査する新人賞をハックするために、技術のある若手が多用したのが〈生活〉あるいは〈体感〉である。

できたての一人前の煮うどんを鍋から食べるかっこいいから
-平岡直子「光と、ひかりの届く先」

わたしがわたしを守ってあげる シャーペンの芯を多めに詰める
-武田穂佳「いつも明るい」

脱いでから今日は暑かったなと思う友達がデザインしたパーカー
-平出奔「Victim」

 むろんこれらの歌、一首一首の、作者や読者にとっての必然性を否定するつもりはない。ここで言いたいのは、既存の短歌新人賞のシステムが、若手の作風をある方向に偏らせている、ということだ。批判されるべきは、個人の資質ではなく制度であって、つまり、短歌業界の「制度」が、われわれの短歌自体までも制度的にしている。

 〈詩〉というものが、これまで世界に存在しなかった想像力を生成するものとして書かれる限り、それら〈生活〉や〈体感〉の存在は、短歌にとって自明ではない。

 

3.資源としての〈生活〉

 そして、審査員の人選の問題を解決して若返りを図り、新しい風を吹かせるかに思えた笹井宏之賞にも、そのような〈生活〉〈体感〉の強さは根強く残っている。

 最新の第4回笹井宏之賞の受賞作、個人賞の作、あるいは多くの応募作を読んでも、いまの〈現代短歌〉のマジョリティが、なにか形容しがたい一体感をもって、〈体感〉のほうにあることは疑いようがない。

 どこまでポエジーの精度・抽象度を上げるにしても、まずはいちど〈からだ〉や〈感覚〉をバウンドさせなければ、なにかを伝えることはできない、とでも言うかのように、ある種の同調圧力が〈現代短歌〉の無意識を形成しているように思える。

冷えた手で布団引き寄せ最近はサラダになりそうな夢ばかり
-椛沢知世「ノウゼンカズラ

 〈夢〉を呼び出すためのコストのように持ち出される、夢から醒めた意識のなかの「冷えた手」と「布団」。

夢の中ではジャズピアニストのものだった指で洗濯物をあつめる
-安田茜「遠くのことや白さについて」

 〈夢〉を説明するために、やはり持ち出される「洗濯物をあつめる」「指」。いつも〈夢〉はさいごに〈生活〉に戻ってきてしまう。われわれが生きているのがこの〈生活〉である以上、仕方のないことだろうか?

-

 もはや、多くの短歌で詠われる「生活のリアリティ」は、大文字の「リアルさ」とは別のところにある。それはある種、短歌を一首成立させるために安全に共有可能な燃料になっている。「生活」の中のひとコマは切り取られ、短歌の資源として消費されるばかりだ。

 もちろんこのような現象はある程度しかたがない。たとえば歳も離れた審査員に対して、生活環境も、友人関係も、生育環境も、ジェンダー観も、景気も、すべてちがうにも関わらず、短歌という短い形式で意思の疎通をはかるなら、なにか強い〈共有可能な前提〉が必要になるだろう。当然、それは多くの場合で、「詩語」と「生活の体感」にならざるをえない。

 しかし、これは短歌の新人賞が抱える構造上の穴をハックするためのテクニックであって、短歌にとって、あるいは〈審査員たち〉ではない〈わたしたち〉にとってのいい歌がなにか、という問題とはまったく関係がない。

 

4.わたしたちがみる夢

 ここで、わたしがみる夢を、あつかましくも「わたしたちがみる夢」として明文化してみよう。

 提案はこうだ。夢の世界を、夢の世界としてそのまま描く。いったん「正気のわたし」を出てこさせて夢の話をさせる、という仕組みは使わない。直接きみが、わたしが、夢の世界を言葉にする。そのようなことが可能なのではないか。

 夢の話をすればするほど、確認され、温存されていく〈まとも〉な〈わたし〉。これは、多くの人が仮想敵にしてみたり、蜜月を演じてみたり、さんざんに振り回されてきた〈私性〉の言い換えだといってよい。

 このような〈わたし〉を起点にした、生活の延長上に〈夢〉を見させるような短歌が、〈夢〉の方程式として組み立てられるのであれば、それは嘘であり、〈夢〉をアリバイにした単なる現実の保全でしかないように思う。

 ことばを選ばずに言うなら、生活のなかで、ちょっとずらしたことを言って、手堅くポエジーを摂取しても、わたしたちの世界のあり方は何も変わらないということだ。

 わたしたちは短歌を書くとき、一首の中にまるごと一個の世界を作りだす必要がある。わたしたちは短歌を読むとき、書き手が作ったまるごと一個の世界を読み込む必要がある。 それはその短歌が内容的に幻想的であれ現実的であれ変わらずそうだ。私たちが知っている〈世界〉で、作品の〈世界〉を濁らせてはいけない。

 

5.FRIENDS -夢のひとつの世界

 そこで、丸田洋渡の短歌をわたしたちは読むことになる。2022年の現在、多くの人が丸田洋渡の短歌をなにか新しいもののように感じながら、その新しさを明瞭に言語化できていないのではないか。たとえば、一つの視点を〈夢〉だとしてみよう。

 ここで〈夢〉は、〈生活〉の途中でみるちょっとした幻とは、まったく違っている。生活を異化するために持ち出されるアクセサリーとしての〈夢〉は偽物であって、むしろ現状の世界の暴力的な制度を追認し、強化するだろう。

 わたしたちが眠りながらみる〈夢〉のなかで、わたしたちはわたしたち自身の生活を思い出せないまま、〈夢〉の中を彷徨う。このような〈夢〉は短歌のなかで作られうる。具体的な方法を言うなら、基準となる〈まとも〉な〈わたし〉に頼らず一首を構成すること、一首の中にまるごと一個の世界を構築することだ。

-

書ける速さに想像を遅らせてダンサーのシーンを書き終える
-丸田洋渡「FRIENDS」

 丸田洋渡の連作「FRIENDS」は、そのような〈夢〉を構成するために捧げられた40首だとしてみよう。

光るなら夜に おとなしい友だちが蛍のように椅子に座った
-「FRIENDS」

 たとえばこの歌が、われわれが見慣れている短歌とは、その出自を異にするのがわかるだろう。〈体感〉を使って歌を作るためのセオリーは、前半が夢なら後半は体感に、前半が体感なら後半は夢に、という二分的な作りだろう。しかし、「光るなら夜に」と「おとなしい友だちが〜座った」の2つのパーツは、夢/体感といった二元的な区分にあてはめて読むことができない。どちらも、夢とも体感ともつかない、ある一個の共通のゾーンに置かれている。

 ここで表現されているポエジーは、〈生活〉を前提してそこから一歩はみ出してみせるような夢ではない。夢のなかでみる〈夢〉であり、目覚めたあとに正気に戻って思い出す夢ではない。

藤が人語を初めて話すときそれは垂れるように不完全だった
-「FRIENDS」

 この歌のなかで、作者と読者のあいだで共有可能なのは、「藤」の「垂れる」という形状と、「話される人語」の「不完全さ」が、その重力や時間に負けたディテールにおいて類似しているという、奇妙な納得感だけだ。

 この「藤」は、正しい世界のむこうに幻視されている「藤」ではなく、この世界のなかにしかない「藤」なのだと思う。一首のなかでだけ生まれ、短歌が終わるのと同時に、作者と読者のそれぞれの頭の中で殺されてしまう「藤」。作者はここで、あやうい「藤」を丸ごと作りだすというコストを支払っている。

海を見ている 火を裏返すと風のおかしなボードゲームのあとで
-「FRIENDS」

 この一首のなかでは、最初から「おかしなボードゲーム」は存在しており、この短歌を読み直すたびに、わたしたちは新鮮にこの「おかしな」世界に直面することになる。一首ごとに生まれ、消えていくそれぞれの世界。それが〈夢〉の世界だ。

 

6.GHOSTS -ゴーストのわたし

 そして同時期に発表され、「FRIENDS」と対になると思われる、連作「GHOSTS」は、短歌のなかでもちだされる〈生活〉、あるいは〈生活〉を強化するためにアクセサリー的に用いられる夢の意匠への批判として読める。「GHOST」とは〈生活〉のみならず、安物の短歌の中で簡単に呼び出されるゴーストめいた「わたし」、への皮肉を意味しているのではないか。

ともだちが夜が武器がそうさせたんだ わたしは気持ちよく銃を撃つ

わたしがわたしを演じだしたら終わりでしょ あーあ 河川敷で寝転ぶよ
-丸田洋渡「GHOSTS」

 丸田の認識のなかでは、ほとんどの短歌や詩のなかの〈わたし〉は〈わたしを演じ〉ているように見えているのではないか。短歌のなかで〈わたし〉を生活させている〈わたし〉は誰なのか。〈わたし〉と、〈わたし〉に〈わたしを演じ〉させている〈わたし〉。

すべての人のすべての想像の雪崩 一対一で話すのは初めて
-「GHOSTS」

 この歌では、歌のなかで簡単に演じてしまえる「わたし」と丸田洋渡の距離感があらわれている。わたしたちが想像できる(かのように思い込んでいる)手のとどく「すべて」とは程遠い、過剰なまでの全称。それは「GHOST」への疑いから露悪的に演じられているものだ。

 たとえば、直近の笹井賞から歌を挙げれば

なほもぼくは衝動買ふよその椅子と椅子にまつはるすべての日々を
-佐原キオ「みづにすむ蜂」

立っているからだが座るまでにある無数の座る以外の行為
-涌田悠「こわくなかった」

 これらの歌が、「すべて」「無数」などの全体性にまつわるモチーフを〈生活〉の延長線上の小さな範囲(椅子にまつわる日々-座るまでにある行為)に限定することで、見た目上のリアルさ(リーダビリティ)を担保しているのと対称的に、丸田の歌では、もはや誰も想像できず、書き手が責任を取ることが不可能なほど、莫大な「すべて」が指示されている。

 「すべての人」の「想像の雪崩」を「すべて」集めてくるという途方もないサイズの〈夢〉。この歌で丸田洋渡は、露悪的なほどに過剰な責任を負おうとする。しかし、〈生活〉の歌を手堅く作るときであっても、ほんらい短歌の作者は、なにか過剰なものを背負わなければならない。内容に関係なく、作品を書くというのはそういうことだから。

世界中のディスプレイにはギザギザのあなたのウィンクが流れつづける
-「GHOSTS」

 しかし、今でも多くの人が、短歌を「ディスプレイ」上で「ウィンク」を見せ合うものだと勘違いし続けているのだ。そして、丸田洋渡のせいで、その「ウィンク」はいま、わたしたちにはギザギザに見えている。

 

7.世界とその消滅

友だちA・C・D・Eが消えていく神話のような積雪の朝
-丸田洋渡「Stir/Scalet」

 わたしがいまここで、丸田洋渡の歌を評価するのは、なによりもまず、一首の中に一個の世界を立ち上げ、〈短歌〉そのものと拮抗しようとする作者の意思だ。

 わたしたちは短歌を読む上でも作る上でも、共有可能な前提やマジョリティ性を無数に持っており、そのすべてに自覚的にアプローチすることが可能で、それは「身体」や「体感」、つぶやくような口調に限られてはない。

白には黒が黒には赤が似合うから雪のピアノに三つの死体
-「birth」

 白と黒と赤。それらを思い浮かべた次の瞬間、ピアノと死体はあった。もっと書け、もっと短歌のなかで人を殺せ、この世界の〈死〉に対抗するために。書き手はその〈夢〉の世界、まるごとすべての責任を取れるはずだし、取る必要がある。

 

  2022.6.22 青松輝

 

 

青松輝 - BOOTH

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4、3、2、1、死の装置

 

 1 

 生まれてから死ぬまでの限られた時間のうちいくらかを割いて、あなたは今、ここで僕が何かを語りだしているのを見ている。

 あなたが人生のなかで読める文章の数は決定的に限られているし、ひとりが死ぬまでに書けることもおそらく限られている。

 そういうわけで、僕にはすでに、あなたの限られた時間に対する責任があり、その責任をできるだけ重く受け止めたうえで、僕は、あくまで自分自身の短歌を引用することから、この文章を書きはじめる。

-

数字しかわからなくなった恋人に好きだよと囁いたなら 4
-青松輝「4」(『文學界』2022年5月号)

 『文學界』2022年5月号:特集「幻想の短歌」に寄稿した、僕のこの短歌について、まほぴさん(岡本真帆さん)が以下のツイートを書いている(嬉しかった)。

 その後、このツイートに触発されて、いくつか考えた事がある。

 これから、上記の自作を含むいくつかの歌を読みながら、自分にとってどのような短歌がおもしろいか、どのような短歌にこれから可能性があると思うか、を述べる。この記事を読んだあとでも構わないから、機会があれば「文學界」5月号も入手して読んでみてほしい。

 また、都合上、この記事では自分自身の短歌の作歌の意図や経緯に多少触れることになり、不粋に思う方もいるかもしれない。ただ、今の自分は、誰かに楽しんでもらう可能性のために、それくらいの犠牲は払うことができる。

-

可能性。すべての恋は恋の死へ一直線に堕ちてゆくこと
-穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

 いつも死によって、可能性は裏打ちされている。

 

 2

 まほぴさんから「4」の歌を褒められたのは、単純に嬉しかったが、なるほど、と納得した部分もあった。というのも自分は、まほぴさん(以下、岡本)の

3、2、1、ぱちんでぜんぶ忘れるよって今のは説明だから泣くなよ
-岡本真帆『水上バス浅草行き』

 という短歌が好きで、影響をうけた部分があるからだ。歌の形も、初句「3、2、1、〜」と、結句の「〜4」で対照的になっている。「3、2、1、」から「4」へ。ここから、これらの2首のつながりを手短に考えてゆく。

-

 私見だが、木下龍也『つむじ風、ここにあります』(2013)、岡野大嗣『サイレンと犀』(2014)以降、何か一個の見えやすい設定や発想があって、シンプルな口語でそれを切り取る、という方法論が短歌の書き手のあいだで明確に発見された。

鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい
-木下龍也『つむじ風、ここにあります』

生年と没年結ぶハイフンは短い誰のものも等しく
-岡野大嗣『サイレンと犀』

 これらの歌は、〈視点/仕掛け〉が核心にある。一首の中にあるアイデアを軸に、読み手の思考が動かされるタイプの歌だといっていいだろう。誰かの感情、あるいは視覚的なイメージ、を追体験するような形の歌ではない。木下・岡野と同じくナナロク社から歌集を出した岡本の短歌にも、この流れに位置付けられるものが多い。

犬の名はむくといいますむくおいで 無垢は鯨の目をして笑う
ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし
-岡本真帆『水上バス浅草行き』

-

 そして「3、2、1」には、これらの歌の先を行く、先駆的な要素がある。それは「ぱちん」で「忘れる」というファンタジックな設定と、それに対する説明の排除である。

3、2、1、ぱちんでぜんぶ忘れるよって今のは説明だから泣くなよ
-岡本真帆『水上バス浅草行き』

 この歌の「ぱちんで忘れる」という設定は、ほぼ完全に外部のサブカルチャーのイメージから輸入されている。たとえば工藤新一のような雰囲気の、「泣くなよ」といっているクールな登場人物の画が見えないだろうか。

 パラレルワールドなのか、タイムリープなのか、「アニメの別れのシーンっぽい」というイメージだけが共有され、具体的な説明は殆どない。にもかかわらず、だからこそ、想像が掻き立てられる。

 この歌からは〈仕掛け〉(=ここでは「説明だから泣くなよ」という一種のあるあるネタ)を正当化する背景(=ここでは「忘れる」という設定)が、いっさい取り除かれている。読者が読むのは「3、2、1、ぱちんでぜんぶ忘れる」世界での、ありそうな台詞だけだ。

 歌の内部で、「忘れる」人と「説明」する人の関係性や、「忘れる」ことのルールを何も説明してくれない、この寄る辺なさが、この歌の切なさや煌めきを加速させている。そこがこの歌の刺激的なところだ。

 

 3

 

 上記のような〈設定/仕掛け〉を意識しながら 「4」の短歌は書かれている。もう少しこの短歌の周りをうろうろするから、ついてきてもらいたい。

数字しかわからなくなった恋人に好きだよと囁いたなら 4
-青松輝「4」(『文學界』2022年5月号)

 もともとの作歌の動機を考えると、この短歌は、自分が他人との恋愛の過程で、ディスコミュニケーションを実際に感じた経験を大いにもとにしている。

 この「ディスコミュニケーション」は僕にとって一大テーマといってよく、そのような内容を書いた短歌は、「4」以前の作品のなかにも多くあった。

生きててくれればいいよと言った、本当はそうじゃないけど、そう言いました
-青松輝「tender」(『のど笛』)

花と器 悪意のことを言いながらきみの硝子の喉はしずかだ
-青松輝「魔法的/暴力的」(Twitterから)

 しかし作者の実感として、過去に作ってきたこれらの歌には、一つ問題があると感じていた。それは、このような内容はあくまで〈僕〉の悲しみの「記述」であって、これらに感情移入してもらったとしても、読者は「ディスコミュニケーションの観察者」でしかない、ということだ。

 「ディスコミュニケーションの記述を読むこと」と「ディスコミュニケーション」は違う。読者は〈僕〉を、ただ安全な位置から見ていればよい、というわけだ。

-

 そこで持ち出されるのが「4」である。この短歌で僕は、読者を巻き込んで当事者にさせたかった

数字しかわからなくなった恋人に好きだよと囁いたなら 4
-青松輝「4」(『文學界』2022年5月号)

 この短歌が描いている状況はシンプルで、簡単に読み取ることができる、数字の「4」の具体的な内容を除いては。

 「数字しかわからなくなった恋人」に、「好きだよ」と囁く。囁いたのを〈僕〉だとするなら、「恋人」は〈僕〉の「恋人」だろうか。ここまでは単なる「設定」と「状況の説明」である。

 では「4」とはなんだろう。恋人が「4」と返事をしたのか、あるいは「4」は一種のナレーションなのか。恋人は「好きだよ」という囁きの意味を理解しているのか。そもそも「4」にはどのような意味が込められているのか。

 それは、作者である自分にもわからない。わかりようがない。もちろん〈狙い〉はあっても、正解はない。僕にとってこの「4」は、読者に何かを伝えるための「4」ではなく、読者と一緒に向き合って考えられる素材としての「4」だといえる。

 「4」は、直接的に、謎を含んだものとして、読者に投げかけられている。ディスコミュニケーションについて書いた歌そのものが、読者とディスコミュニケーションを起こしてしまう、という構造が必要だった。その意味でこの短歌は、薔薇園の絵ではなく、薔薇園の模型に近い。

 この構造は、じつは「3、2、1、」の歌とも共通している。

3、2、1、ぱちんでぜんぶ忘れるよって今のは説明だから泣くなよ
-岡本真帆『水上バス浅草行き』

 書き出しの「3、2、1、ぱちん」の部分は、登場人物→登場人物の台詞であると同時に、読者であるわれわれにも、カウントダウンとして直接さし向けられている。われわれは韻律のリズムに合わせてカウントダウンを復唱することを強制され、「ぜんぶ忘れる」ことを想像して泣くのは、作中の登場人物でもあり、私たちでもある。

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 以上のように、「3、2、1、」の歌と「4」の歌はともに、作中の〈仕掛け〉を手がかりに、作品の中に没入するという、単に作中主体の感情への共感や、情景の追体験、などとは違う構造を持っている。言い換えると、これらの歌では〈作中主体〉のフィルターを経ずに、直接的に作品の中の世界を体験できる。

 このような短歌を、僕は〈アトラクション装置〉的な歌、と呼んでいて、この方向に短歌の大きな鉱脈があるのではないかと思っている。ディズニーランドの乗り物やジェットコースターなんかをイメージしてもらいたい。

-

 あと少し、具体的な歌を取り上げて〈視点〉の歌と〈アトラクション装置〉の歌について考えてみよう。

邦題になるとき消えたTHEのような何かがぼくの日々に足りない
-木下龍也『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』

 この短歌は〈視点〉+〈一人称〉のつくりを取っている。キャッチーな秀歌だと思うが、この歌はまだ「ぼく」の「あるある」を納得させる仕組みを採用しており、〈装置〉として使うには不十分だといえる。読者は「何かが足りない」という事実に、本気で向き合う必要がない。

倒れないようにケーキを持ち運ぶとき人間はわずかに天使
-岡野大嗣『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』

 だが、この歌ではもはや、天使になるのは「わたし」でも「作者」でもない。この歌は〈誰もが短歌のなかで天使にされてしまう装置〉であり、アトラクション的だ。

 このような〈装置〉の歌は、単純化していうなら、〈僕〉という道具を必要としない。ここでは説明を省くが、〈僕〉という一人称は、男性的に透明化された身体や眼を表現するために使える、マジョリティ性を抱えた道具だといえる。そのような一人称性に伴う暴力やエラーを起こさないのが〈視点〉+〈三人称〉的な歌の強みだといってよい。

 だからこれらの歌は、多くの人に、等しく速いスピードでの没入をもたらす。

-

 ただし、もちろん、このような歌にも弱点はある。〈僕/わたし〉という一人称の装置を外したとしても、これら〈装置〉が短歌である以上は、多くの場合でまた別のマジョリティ性に依存してしまう。

 たとえば岡本の「3、2、1、〜」で、〈僕〉という装置にかわって持ち出されるのが、外部のサブカルチャーからの引用である以上は、なんらかの集団で共有された共通理解を利用し、読者を何らかのシステムのコードに同化させる力を持つ。「4」における、「恋人」のイメージの利用についても同様だ。

 見やすい設定、あるいは短歌のなかの〈視点〉という技術は、これまでにない爆発力を現代短歌にもたらした。

問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい
-川北天華

誰ひとりきみの代わりはいないけど上位互換が出回っている
-宇野なずき『最初からやり直してください』

 このような歌は、多くの人に開かれていると同時に、危険な装置でもあると感じる。誰にでも歌えて誰にでも同じように美しく響く歌。そのような歌をわれわれはどこかで見たことがあるはずだ。

我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで
-よみ人知らず

 同一化ほど気持ちがよく、同時に危険なものを、2022年のSNSの私たちはまだ見つけられていない。バズより怖いものはない。

 

 4

 死ぬまでのあなたの限られた時間のうち、いくらかを与えられて、この原稿はそろそろ終わろうとしている、それを読んでいるあなたを、なにか言いながら僕が見ている。

-

 さて、ところで、では、上述の〈誰でも乗り込める装置〉のような短歌を作るのは、なんのためだろう。勿論、作者それぞれに意図があるはずだし、読者それぞれに感想はあるだろう。

 しかし、あえて、いったん僕なりの答えを出すとするなら、みんなにわかってほしいから、だと思う。ただ記述するのではなく、「3、2、1、」あるいは「4」というものの物質性を通して、読者に追体験させることでしかわからない何か。

 なぜ、わかってほしいか。それはやはり、いつか死ぬから、だと言わざるをえない。死ぬ前にもっと再生数を、もっとハートを、もっと共感を。

 われわれは(間違いなく)(100%)確実に、最後には死んでしまう。にもかかわらず、死の実態はつかみようがない。生きている人は、誰も死を知らない。死んだことがないから。

 だからこそ、これまで取り上げた〈仕掛け〉の歌では、仕掛けの素材として死というモチーフが頻繁に利用されてきた。岡本の歌の「忘れるよ」も、限りなく死に近いところにある。

-

 死というものの、ある種の否定神学的な〈わからなさ〉が、われわれの詩や愛をいつも神秘的にしてくれている、と思う。そして同時に、そのような〈わからないもの〉のことを書き続けなければならない、われわれ自身の姿を、高いところにある神さまのような視点から、哀れんでみたくもなる。

 このような死の問題、絶対に訪れることのない未来を書こうとすることの問題は、前稿「詩の到来、その素描」における〈詩〉の扱いとも関連してくるように思うが、今はまだ、その図式を暗示することしかできない。

 

 死、

可能性。すべての恋は恋の死へ一直線に堕ちてゆくこと
-穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

 

 詩、

数字しかわからなくなった恋人に好きだよと囁いたなら 4
-青松輝「4」

 

 4、

3、2、1、ぱちんでぜんぶ忘れるよって今のは説明だから泣くなよ
-岡本真帆『水上バス浅草行き』

 

 エンディングの音楽が流れる。今のは説明だから、文章は終わるけど、われわれはまだ生きている。で、死んだらどうなる?


  青松輝 2022.4.15

 

 

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所感20こ

 

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わりとつねに何もしてないし、わりとつねにキャパオーバーしてる。

最近パフェに凝ってる。パフェは美味しいけど、本当に心底食べたいかというと、別にどうしても食べたくはない。むしろ、みんながくれたYouTubeの広告収入から、小さい器に入ったフルーツとクリームのために、1000円〜2000円払って、一瞬で食べ終わる……っていう、貨幣をバカにした態度みたいなのが、自分を癒してくれる気がする。

ルールがあって、ゲームがあって、技術がある、というのがいちばん好きだ。ルールが改変されていくから、ゲームも変わっていく。そのとき、ゲームのルールを変えていくのは「社会」なんだけど、逆にゲームのプレイングみたいなものが「社会」を変えるパターンもある。ゲームの複合としての世界。

先月、友達が電車に飛び込んで自殺する夢みた。

おもしろい人とか、おもしろい作品って、過程でどんなことが起きててもわりと「おもしろさ」だけで全てを正当化されてしまうところがあって、それはすごく怖いことだ。最近では、ポカリスエットのバズったCMとか、オリンピックのいろんな名シーンとかを見て、強く実感した。目の前の人に優しくしたい。

「日本には四季があってすばらしい」って言う奴、マジで大して思ってもないこと皆のマネして言ってるでしょ、と思ってたけど、日本に四季があるおかげで冬の短歌と春の短歌と夏の短歌と秋の短歌があるのは、すごく、良いとわかる。でもべつに四季そのものには全く興味ない。あと、「日本語は美しい」って言ってる奴もよく見るけど、日本語しか知らないだけだと思う。

女の子(たち)が「おもしろい男の子」を求めているのをうっすら感じたとき、すごく嫌な気持ちになる。自分はおもしろくなる気なんてないくせに。でも自分も、女の子に、男の子にはないものを求めてしまってる時がある。

優しさとか賢さとか美しさには上限がない。それはすごく怖い。

自分たちの心は「パターンで書ける」。自分の生きる意味や感情を発明することと、自分の発する言葉の一個一個の書き方・言い方を発明することは、かんぺきに関係がある。誰もが、自分の感情を台本におこして演技している。

何もしたくないし、全部のことをしたい。

レベルが低いやつにムカついたり、レベルが低いやつを矯正しようとしたり、レベルが低いやつと喧嘩したりしても、マジでしょうがない。レベルが低いやつ、っていうのがいて、性格が悪いやつ、とかもいて、関わるだけ無駄な奴がいる。それを受け入れなきゃいけない。でも、受け入れたくない。

ネットサーフィンしてたら出てきたエロ漫画の広告に、「もう運命ですよ、先生」「先生 俺とこうなるために」「教師になったとしか思えない」っていう心理描写が書いてあって、自分勝手でキモすぎて、リアルで良かった。読んでエロい気持ちになったら良さが損なわれる気がして、漫画自体は読まなかった。

わがうたにわれの紋章いまだあらずたそがれのごとくかなしみきたる

葛原妙子「橙黄」

ものごとのクオリティを上げる上で、もちろんインプットとかアイデアも大事だけど、粘り強さが大きく作用すると気付いてきた。ツイートひとつとっても30秒よけいに推敲したことが活きる、とか。センスとか才能とかインプットとかも勿論あるんだろうけど、自分のなかで、このクオリティじゃ足りないなという感覚に嘘をつかないことがもっと肝心だと思う。そこがブレなければ、自分がいいと思うレベルのものと比較して、改善案をいろいろ出してるうちに、基準を上回るものが偶然出てくる。それでいい。才能とかセンスはなくてもいい。粘れるようになりたい。

他人の人生をニュースとして消費することが本当に気持ち悪いと最近とくに思う。たとえば、よそで事故とか事件が起きて、「かわいそう…」とか「社会を変えなきゃ…」って暗い気持ちになるとして、それもある種の娯楽でしかない。良心的な顔をしたゴシップの消費が薄気味悪い。最近はもう、できるだけニュースとかTwitterのトレンドを見ないようにしてる。自分ができる範囲でやることをやる。本当に、世界を、良くしたい。知らない誰かのために。

自分ってがんばれてるのかな?

ちょっと気分がよかったり、嬉しいことがあったくらいで「みんな大好きだよ」とか言わないでほしい。みんなのことが大好きなわけない。自分にとって都合のいい人がすごく好きで、そうでもないひとはそうでもなくしか好きじゃないはず。嘘はやめて。

名曲が今をなだめてるよ
まだ何か足りないって、
ダレないであと何回言えばよかったんだ?

スーパーカー「FAIRWAY」

この、「まだ何か足りないって」と「ダレないで」を両立し続けるのが、めちゃくちゃ難しくて、でも大事にしたい。

こんな、いろんなことゴチャゴチャ言ってても仕方ない。やるしかない。たぶん、やって突き抜けるのが一番簡単。

俺はぜんぶのことを本気で言ってるから、聞いてほしい、わかんなくていいから、本気で聞こうとしてほしい。あなたが言ってることを、全部知りたいし、わかりたい。それはマジで思ってて、俺が話を聞いてないときは、ほぼ毎回、わかりすぎてつまらないからなんだよ、本当に、こんなこと言いたくない。

 

⏸ PAUSE

サマー(夢の夢の季節)

 

留年日記です。

サマー(夢の夢の季節)(2021/7/24) 青松輝

 

 

ずっと、好きな季節を訊かれたら「冬」と即答するようにしてきた。理由は簡単、夏は暑いからだ。

 

 

……。

 

本当の理由はそれだけではない。「夏」の、祝祭感、みんなが一つになる感、が、嫌いだ。夏と、夏に必須とされる、海、休暇、スポーツ、恋、旅行、お祭り、キャンプ、フェス、甲子園、どれもこれも「自分の身体」を使って「楽しむべき」な、「陽キャの」季節。

 

夏服も苦手だ。薄いTシャツを着れば、体のラインが透けないか気になるし、襟付きの半袖シャツは夏以外着れないから、良い物を探す気になれない。ポロシャツも扱いが難しい。そもそも僕が服が好きなのは、自分の身体が好きではないからで、自分の存在に自信のない人間に、夏は厳しい。

 

注意力をできるだけ散漫にして よけられない夏がこっちへ来る

青松輝「複数性について」

複数性について(短歌12首) - アオマツブログ

 

夏が来るのは避けられない。誰もが夏を「夏」として受け入れ、享受し、騒ぐ。注意力をできるだけ散漫にして。注意力散漫でなければ、夏なんて、楽しいわけがないからだ。

 

 

短歌にも、「夏の名歌」は多い。

 

あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

小野茂樹『羊雲離散』

 

「たつた一つの表情」。夏が僕たちに迫ってくる選択がある。「夏」は一個しかない。僕たちそれぞれの夏への数限りない態度と行為、しかしそれは「たつた一つ」の「夏」の表情である。「夏」に対して、どれだけ我々が距離を取ろうと、反発しようと、「数限りなき」僕たちの選択は、いつも最後に「たつた一つ」の表情になって、回収されてしまう。

 

この短歌が、「夏」の単一性や強制力をある種、無邪気に礼賛しているにも関わらず、その他の凡庸な「夏」の短歌と異なって多くの人を魅了するのは、この歌の輝きがある種のフィクショナルなものであり、極度に抽象化された「たつた一つの表情」を見せているからだろう。

 

この歌を読む人は、それぞれが完璧に自由にそれぞれの「あの夏」の「表情」をイメージできる、しかも無限に。この歌は、単に「夏」のステレオタイプを具体化し、強化するのではなくて、「夏」の構造そのものにアクセスする回路を開いている。我々に「夏」を思考する契機を与えてくれている。

 

 

あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ。夏といえば……のナンバーワンといっていいくらいの有名歌であり、いつも最終的には小野茂樹の死、あるいは恋愛、そういった単一的な物語によって語られてしまう歌。

 

にもかかわらず、この歌は、テキストレベルでは極端に抽象的で、潔癖で、冷えた書き方が選ばれている、ということを頭に入れておいた方がいいだろう。この歌を「ホットな夏の名歌」にするのも、「ロマンティックな恋の思い出」にするのも、読み手の僕たち自身である。

 

でも……。それでもまだ、僕はこの歌に完璧に賛成することはできない。ある意味でこの歌の潔癖さ、端正さが、「夏」のステレオタイプを招待するような、ずるい書き方とも言えるからだ。この歌は「潔癖な書き方」を装うことによって、僕たち読者の「夏」に対する距離感を無限に試し続けている。僕たちはどこまでいってもこの歌のせいで(=僕たち自身のせいで)小野茂樹の恋と死を、あるいは「夏」を読み取ることの欲望に誘われ続ける。それはすごく気持ち悪いことでもあるのだ。

 

でも、その、僕たちが求められる態度の複雑さが、「夏」の美しい本質を完璧に映し出している。この歌は「夏」にほぼ同化しようとしている。だから、この歌は名歌なのだろう。

 

 

今年、僕は「夏が嫌いだ」と言い続けるのをやめようと思っている。「夏」に対する多くの人の態度がポーズであるのと同様に、自分の「夏が嫌い」という態度もポーズなのではないか、と思うようになったからだ。

 

端的に言って、僕が好きな季節を「冬」だと即答する姿勢は、「夏」の持っている魔力と求心力を利用していた。「みんなが好きな夏を、あえて僕は好きじゃありません」と言っているのでは、「みんなが好きな夏を、一番好きです!」と言っているのと変わりがない。

 

単に「夏が嫌い」といって、海にも行かず、お祭りにもバーベキューにも沖縄にも行かずにきたこの23年は、間違っていたのではないか?

 

いや、間違ってても自分がよければ別にいいんだけど、今はもっと僕が、僕自身のために、僕自身の本当に好きなものと嫌いなものを見定めなければならないと、そう感じる。

 

 

夏は、世界が単一であることをいつも感じさせる。世界が単一で、みんなが同じことを話していて、同じような時間が流れる人生がたくさんある、のは心底嫌だ。

 

僕は、単一性の方よりも、複数性の方につきたい。「数かぎりなき」夏の方へ。「夏」は僕たちに関係がない。僕たちの夏が、「夏」からの距離でしか計られえないとしても、僕の夏は、「夏」と関係がない。そう主張することができると思っている。

 

きみにやっと永遠がやって来るまでのひゃくに充たない珠玉の夏の…

山中千瀬「さかなのぼうけん パート2」(『率』8号)

 

 

夏が来る。単一的な夏が。

 

夏が好きなみんなことが嫌いなわけじゃないし、きっとまた、夏は来るから、自分のなかに何か態度のようなものを持っておきたい。ただ気分的に嫌いなだけじゃなくて、自分はこうやってこの波を乗りこなすんだ、みたいな、そういう。

 

思考を停止して夏の単一性に反発することは、「夏」の力を、逆に強化するだろう。「夏」に入っていった上で、それらを自分の頭と身体で、思考して、感覚しなければいけない。海、休暇、スポーツ、恋、旅行、お祭り、キャンプ、フェス、甲子園、ぜんぶを歓迎しよう。歓迎した上で、どう感じるか、どうアクションするかは自分で決めればいい。

 

自分の身体や頭のなかを常にすべて否定して改変し続けることはできない。解像度をあえて下げること、解像度を死ぬほど上げること、そういうオンオフを繰り返し続けたい。

 

この夏、僕は僕のために、わざわざ海へ向かい、フルーツやかき氷を食べるだろう。大した理由じゃない。はたから見れば単なるミーハーでしかない。でもそれは、単純に「夏」に転んだんじゃなくて、転んだふりをしていて、夢みたいな、夏の夢を見ている、それはポエジーのポエジーオルタナティブオルタナティブ夢の夢

 

別館に用事があるって本館でずっと喋っていた夏の夢

中山俊一「誕生日」(『ねむらない樹』vol.3)

 

夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう

穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

 

薔薇園にあなたが立っているさまをゆめみてそのあとの夏の朝

佐々木朔「そのあとの」(『羽根と根』9号)

 

ACE(自選短歌12首)

 

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「最適日常」さんのリレーネプリシリーズに、自選12首「shoki no hikari」を寄稿しています。

 

本記事では、ネットプリントの宣伝も兼ねて、「shoki no hikari」とまったく別の自選12首「ACE」を公開します。バージョンBといえばわかりやすいでしょうか。

 

ぜひ、ネットプリント版の12首と見比べて楽しんでみてください。

 

 

あなたさえいれば・ラズベリー・嘘みたいに・ブラックベリー・寂しくないよ

 


ひどく疲れる作業の予感 1200 24000 みだらな直喩

 


ビューティフル、な、メロディーを書く鳥へ 全方位移動して渡って

 


 


ポーカーを愛するあまりスペードのAから始まる走馬灯

 


溢れかえる姫蜂、きみのあいまいな韻が発情しているせいで

 


一千年続くギターソロの途中で何度か沈丁花を想起した

 


カッターでさくっと切ってみるといい(あるいは冷えた梨の抒情で)

 


光り続ける僕たちの密室論/世界すべてを映し出すシネマ

 


 


話し言葉は消えてっちゃうから良いねって消えていってた なながつだった

 


さよならの練習はあくまで速く、執事に邪魔されてもいいように

 


いつか僕の脳が壊れてゆくことをスキー場に喩えてみてもいい?

 


花びらで後部座席を満たしても急発進するときは揺れるぜ

 

 

 ⬜︎ 

 

プロフィール – 青松輝 Aomatsu Akira

一九九八年三月生。東京大学Q短歌会に二〇一八年から所属。ネットプリント「第三滑走路」など。サマー・ハイ・モード。

詩(4篇)

 

こんにちは。

ここ一年ほどで少しずつ書いていた詩、4篇です。よそで既に載せたものも2篇入っていますが、思い立ったのでまとめて公開します。

(2021 7/2 青松輝)

 

dreaming

 

邪なきもちで見てもいいのは、花でみたされたところの青いときの環。浮遊している花のこころの、裏切るときの、青い環。

飛行機をイメージするとき、かならずよぎる、同時多発テロの映像。僕たちはたしかに一緒にいた。あなただけはそれを知っているという妄想によって、恋はわたしに恋することができた。

あなたたちは、すでに夢の世界に入りこんでしまっている。でも、脱出は可能。なぜって、飛行機が緊急着水した場合に身につける救命胴衣が、各座席下またはひじ掛け下など、すぐに取り出せる場所に備えられています。

青いその環は、わたしを裏切る。頭からかぶって着用します。幼児用も用意されています。緊急時以外には、お手を触れないようお願いします。青いその環の、ふしだらな世界の、系、

抒情を抒情せよ。それをあなたたちが見ている。

 

 

花嫁尾行

 

花嫁を尾行している。

トンネルを抜けると急に、明石海峡大橋が見えた。いっきに視界が青くなって、助手席からは橋を吊り下げている柱がどーんと見える。視界が、柱と、橋を吊り下げているワイヤーで、左右に区切られていて、縦に長い柱がなにか崇高なものに見えた。

いい感じのカメラで、可愛く撮られるのって、そんなに嬉しいことなんだろうか?

映画は全編で3ヶ月以上の長さがあったから、エンドロールを見るだけで半日以上かかった。そのあいだ席を立ったり座ったり、席を立ったり座ったり、席を立ったり座ったり。どんな風に撮っても白飛びする。

聞いてる?

酒癖が悪い人は好きじゃないと思っていたけど、とんでもなかった。タブレット端末をさわればさわるほど、世界が徐々にダメになっていってるのがわかった。僕も例外じゃない。

やけになって、トゥレットについて何度も話す。そのときにわたしたちが包まれている、病んだ光の、光の私淑。

 

capsule

 

ごめん、もう好きじゃないんだ。

ぜんぶの詩が恋愛詩なんだと思う、って言ったら、笑われるかな。紙はカプセルに入っていた、おみくじみたいに折り畳まれていた。

もういない誰かに僕は話しかける。ミルク。化粧品売り場に行くときも手をつないでいたはずだけど、そのときのことがあいまいにしか思い出せない。胡桃。

舞台のマクベスが死ぬところを見ている、神経質な女の子が。もういやだ辞めたいと思った、何回も何回もひとりの部屋で。きっとすぐにそのことを忘れて、忘れたということも、すぐ忘れるだろう。

喪失はいつも、あらかじめ与えられている。カレンダー、カッター、かならず迎えにいくって、恢復のまえに、こわれた韻律で伝えてくれ。

 

Vanilla

 

山梨県にほんとうの雉がいる。じつは山梨県じゃなくてもいいんだ。じつは雉じゃなくてもいいんだ。きたない地図にほんとうのテレパシーがある。じつはきたない地図じゃなくてもいいんだ。じつはテレパシーじゃなくてもいいんだ。

バニラアイスのバニラの匂いを思い出してみて、と言われる。それは急にはわからないよ。ごめんね。具体的に匂いは思い出せないのに、きみがそのとき、何か感覚しているのは、なんなんだろう。

半島が抒情するとき、金箔のようなきみの左右が釣り合って、僕は激情に分け入る、ブーメランのように放たれた言葉が、ブーメランのように身体に刺さる、それまでさようなら、アディオス

十字架というのは縦長になってるでしょう。あれは、縦向きってのが、つまり、重力が、実存っぽいことのメタファーとして働いてるから、だから縦書きと横書きって全然違います。とくに詩においてはそうです。

エアーマンって知ってますか?エマーソンじゃなくてエアーマン。エレメンタル・ヒーローの方。「エアーマンが倒せない」の方じゃなくて。「エア」マンじゃなくて、「エアー」マンじゃないとかっこよくないんだと思う、あれは。

boku no
ishiki ga
sonouchi
sumiwatatte
kajyou(過剰) na
shimeikan wo obiru koto wo
aete
"shi(詩)" to yobu.

 

CRAZY FOR YOUの季節

 

4月になって、留年日記をつけています。時間ができて色々考えることが増えたので、いい機会なので自分のために始めてみることにしたのです。

 

もう15日分くらいは書いていて、溜まったら本の形にして売るつもりですが、試しにブログで、今日の分を公開してみたいと思います。短歌と音楽の話が多くて、日記というよりエッセイですが読んでみてください。

 

 

4/27(火) CRAZY FOR YOUの季節

 

さいきん、急にBase Ball Bear(日本のバンド。以下「ベボベ」)がわかるようになって、「C」というアルバムをよく聴いている。高校生くらいの頃は、なんだこの嘘くさいキラキラした雰囲気は……と思って敬遠していたが、今になってこのキラキラ感がわかってきた。

 

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かっこいいロックバンドには、否定性の契機、みたいなものがあってほしいと思う。それはいまも変わらないけど、数年前は、今よりも過激に、売れることを目的としたポップさやキラキラ感、もしくは外に開かれたわかりやすい態度、みたいなものを嘘だと思っていた。

 

ベボベは、ナンバーガールスーパーカーの直系と言われているみたいだけど、その両バンドが好きだった過去の自分は、ベボベのことは精神性のレベルで全然別物だと思って聴いていた。ミーハーな話だが、ナンバガスーパーカーは好きだがベボベは認めない、みたいなことを家で一人で思っていた。

 

スーパーカーがポップでキラキラしているのは、スーパーカー自身の否定性を極限まで推し進めたからであって、ベボベのそれは単に、不徹底なもの、数字を取りに行ったもの、にしか見えていなかった。

 

 

その否定性は当然、自分にも向けられていたと思う。物心ついてからずっと、僕はその〈否定性〉によって、ほぼ自縄自縛といってもいいような形で、色々なことを思考してきた。

 

なにかを簡単に好きになってはいけない。簡単に信じてはいけない。失敗を何度も見つめろ。不可能性といつまでも向き合え。泣くな。諦めるな。見えるものはすべて否定せよ。見えないものはもっと強く否定せよ……だから、こんな歌詞はありえないと思った。

 

春風の中、君は花のようだ
広がる髪もスカートも
抱きしめたい

Base Ball Bear「抱きしめたい」

 

美しい人を花に喩えるのは簡単すぎる。他者を抱きしめたがるのは気持ち悪い。抱きしめるとして、髪やスカートでいいのか。春風に吹かれることは「君」にとって本当に嬉しいことなのか。

 

そういうことが言いたかったし、今も言いたい。でも、少しずつ変わってきている部分もあるのだ。

 

 

僕は今になって、〈否定性〉が社会との格闘の結果として〈わかりやすさ〉を求めることがわかりつつある。

 

身の回りの環境が変化したり、フォロワーが増えたり、いろいろ具体的な要因はあると思う。だけど、自分が歳をとって色んなことが分かって大人になった、みたいな話をしたいわけではない。

 

 

つまり、徹底的に否定的なものを構想したり結晶させるだけでは、世界は変化しないということを体感したのだ。今ここにある制度に、ごく一部でもいいから歩みよらなければ、作品であれ、仕事であれ、世界を変革するようなことは為し得ない。制度上、何かを作って世界に送り出すこと自体がある種の現状追認だから。徹底的な〈否定〉は、自殺、完全に何もしないこと、精神の虚無、その程度の限られた帰結しかもたらさない。

 

重要なのは〈いかに否定するか〉ではない。〈否定〉と〈肯定〉のあいだで、どうやって強く引き裂かれて、緊張感を持ち続けられるかなのだ。もっと踏み込めば、その〈歩み寄り〉と〈否定性〉の駆け引きの中で、作品の効果を最大化することこそが「創作」なんだと言ってもいい。

 

 

それは、広い世界に向けて(自分の場合はYouTubeなどSNSで)発信することになって、より強く感じるようになったことだ。

 

たとえば僕は、学歴なんてものは人生にとって本質的ではないと思う。重要なのは自分自身の価値観を持つことであって、他人の作ったヒエラルキーを鵜呑みにしてマウントを取り合っても無意味だ。YouTubeの動画を通しても、そういう考え方を発信しているつもりだが、皮肉にも、僕が動画を多くの人に見てもらえるのは、ほかでもない東京大学の生徒であり、それをネットで自ら喧伝してきたからだし、僕のYouTubeの視聴者は、僕をひとりの学歴モンスターとして見ることをやめない。

 

今よりも潔癖な時期の自分だったら、今の自分を、学歴を切り売りしているにも関わらず綺麗事を言うペテン野郎だと思ったかもしれない。だけど、今の自分にとって、自分の達成したい目標や伝えたいことのために自分が汚れるのは、割となんでもないことなのだ。

 

思考を一時停止することが最良の選択になるような〈思考〉があり、目の前の状況に流されていっけん非-倫理的な方へ進むことが〈倫理〉になりえることもある。

 

僕が言っているのは、何かルールを認めないと何かを主張すべきではない、的なくだらない義務論ではない。もっとシンプルな効率の話として、何かを否定するときに一番効果的なのは、その空間に深く入りこんで〈内破する〉ようなアプローチではないか、と考えているだけなのだ。

 

 

おとといTwitterで、歌人の初谷むいさんが僕の短歌を取り上げてくれた。

 

 

他人が自分の短歌で泣いた……というのに実感がわくかと言われれば微妙だが、たぶん嬉しいことな気はする。他人(しかもあこがれの先輩)に自分の作品が届いた、ということだから。

 

 

じつはこの短歌は、ネットプリントではじめて発表した時はこのような形ではなかった。

 

短歌、これくらいでいいですか?こっちも忙しいんで……
おりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃって生きてたらはちゃめちゃに光ってる夏の海

青松輝「フィクサー」/「第三滑走路」7号

 

「短歌、これくらいでいいですか?こっちも忙しいんで……」。こういう、短歌の前後にくっついた散文を「詞書(ことばがき)」という。この短歌は、詞書がついて完成の一首だったのだ。

 

この詞書にどういう意味を読み取るかは読者の皆さんに任せる。が、この詞書は、僕にとってわりと思い出深い。まず、あるネット記事をきっかけにちょっとネットで話題になった(短歌は青松輝を飽きさせてはならない|私たちの恥じらい|note)。で、それに対する反応として、この詞書じたいを何人かに「おもしろくない」と批判されたり、最終的には「こういうなめくさった詞書を書く奴を短歌はなんで飽きさせたらあかんのって思うんやけど。勝手に出てけや」「青松さんの反応は端的にダサい。」など色んなことを言われるきっかけになったからだ。

 

まあ細かいことはどうでもいいとして、自分にとって印象深い一首なのだ。気になる人はここを見るといいと思う。「短歌は青松輝を飽きさせてはならない」まとめ - Togetter

 

その後、騒動(?)をきっかけに(?)「あたらしい短歌bot」というTwitter上のbotにこの短歌は収録され、ときどきツイートされてはそこそこRTといいねを稼いでいるのを目にする。

 

 

そして今、なぜこの詞書を自分が必要としたか、ということを考える。それはやはり、自分に内蔵されている〈否定性〉からくる言葉だったのではないか。「生きてたら」、「海」が「光って」しまう。それを否定しなければいけない、という志向が自分の中に確実にあった。

 

一生懸命生きてたら海が光るなんて、くだらないよ、という身振りが、「おりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃ」「はちゃめちゃ」という言葉たちの雑さだけでは足りない、と自分に思わせ、「これくらいでいいですか」と書かせた。

 

この詞書に「こういうなめくさった詞書を書く奴」と言わせてしまったのは僕の技量とセンスの不足だが、僕はおそらく短歌をナメていたのではなかったと思う。

 

短歌のことを信じるがあまり、同時に短歌のことを疑い、否定したくなり、短歌に対して照れていた。世界や他人、友人や家族や恋人に対してもそうだった。

 

先述のbotには初出の詞書「短歌、これくらいでいいですか?」はもう入っていない。そして、詞書がない方が、この歌は他人を「泣かせる」ような気がするのだ。

 

 

 

今は、いつか出すつもりの自分の歌集には、この歌は詞書なしで載せてもいいんじゃないか、と思う。はちゃめちゃに海が光ってもいい。それに見合うくらいに生きたなら、僕たちは報われてもいいはずだ。

 

そう思える理由を訊かれれば、愛がわかるようになった、と言うしかない。愛の感覚と、自分や世界を一部で肯定することは、限りなく近いように思える。

 

 

僕はもう、何もかも否定する必要はない。もちろん駄目なものには駄目だと言っていい。だからといって全てを否定して、あれもこれも捨てて、一人になろうとする必要もない。

 

優しくならなくていい。誰かを傷つけてもいい。困っている人を無視してもいい。ルールを破ってもいい。怯えてもいい。裏切ってもいい。嫌いになってもいい。愛してもいい。

 

自分が何をしたいかを、自分で決めて、その結果を背負うことができるから、僕たちは完璧である必要がない。

 

CRAZY FOR YOUの季節が
ざわめく潮騒のようで
氷漬けの気持ちを溶かすから
海みたいに街中、光って
Base Ball Bear「CRAZY FOR YOUの季節」)