アオマツブログ

青松輝(あおまつ・あきら)。短歌・批評など。Twitter:ベテラン中学生、YouTube:ベテランち。

CRAZY FOR YOUの季節

 

4月になって、留年日記をつけています。時間ができて色々考えることが増えたので、いい機会なので自分のために始めてみることにしたのです。

 

もう15日分くらいは書いていて、溜まったら本の形にして売るつもりですが、試しにブログで、今日の分を公開してみたいと思います。短歌と音楽の話が多くて、日記というよりエッセイですが読んでみてください。

 

 

4/27(火) CRAZY FOR YOUの季節

 

さいきん、急にBase Ball Bear(日本のバンド。以下「ベボベ」)がわかるようになって、「C」というアルバムをよく聴いている。高校生くらいの頃は、なんだこの嘘くさいキラキラした雰囲気は……と思って敬遠していたが、今になってこのキラキラ感がわかってきた。

 

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かっこいいロックバンドには、否定性の契機、みたいなものがあってほしいと思う。それはいまも変わらないけど、数年前は、今よりも過激に、売れることを目的としたポップさやキラキラ感、もしくは外に開かれたわかりやすい態度、みたいなものを嘘だと思っていた。

 

ベボベは、ナンバーガールスーパーカーの直系と言われているみたいだけど、その両バンドが好きだった過去の自分は、ベボベのことは精神性のレベルで全然別物だと思って聴いていた。ミーハーな話だが、ナンバガスーパーカーは好きだがベボベは認めない、みたいなことを家で一人で思っていた。

 

スーパーカーがポップでキラキラしているのは、スーパーカー自身の否定性を極限まで推し進めたからであって、ベボベのそれは単に、不徹底なもの、数字を取りに行ったもの、にしか見えていなかった。

 

 

その否定性は当然、自分にも向けられていたと思う。物心ついてからずっと、僕はその〈否定性〉によって、ほぼ自縄自縛といってもいいような形で、色々なことを思考してきた。

 

なにかを簡単に好きになってはいけない。簡単に信じてはいけない。失敗を何度も見つめろ。不可能性といつまでも向き合え。泣くな。諦めるな。見えるものはすべて否定せよ。見えないものはもっと強く否定せよ……だから、こんな歌詞はありえないと思った。

 

春風の中、君は花のようだ
広がる髪もスカートも
抱きしめたい

Base Ball Bear「抱きしめたい」

 

美しい人を花に喩えるのは簡単すぎる。他者を抱きしめたがるのは気持ち悪い。抱きしめるとして、髪やスカートでいいのか。春風に吹かれることは「君」にとって本当に嬉しいことなのか。

 

そういうことが言いたかったし、今も言いたい。でも、少しずつ変わってきている部分もあるのだ。

 

 

僕は今になって、〈否定性〉が社会との格闘の結果として〈わかりやすさ〉を求めることがわかりつつある。

 

身の回りの環境が変化したり、フォロワーが増えたり、いろいろ具体的な要因はあると思う。だけど、自分が歳をとって色んなことが分かって大人になった、みたいな話をしたいわけではない。

 

 

つまり、徹底的に否定的なものを構想したり結晶させるだけでは、世界は変化しないということを体感したのだ。今ここにある制度に、ごく一部でもいいから歩みよらなければ、作品であれ、仕事であれ、世界を変革するようなことは為し得ない。制度上、何かを作って世界に送り出すこと自体がある種の現状追認だから。徹底的な〈否定〉は、自殺、完全に何もしないこと、精神の虚無、その程度の限られた帰結しかもたらさない。

 

重要なのは〈いかに否定するか〉ではない。〈否定〉と〈肯定〉のあいだで、どうやって強く引き裂かれて、緊張感を持ち続けられるかなのだ。もっと踏み込めば、その〈歩み寄り〉と〈否定性〉の駆け引きの中で、作品の効果を最大化することこそが「創作」なんだと言ってもいい。

 

 

それは、広い世界に向けて(自分の場合はYouTubeなどSNSで)発信することになって、より強く感じるようになったことだ。

 

たとえば僕は、学歴なんてものは人生にとって本質的ではないと思う。重要なのは自分自身の価値観を持つことであって、他人の作ったヒエラルキーを鵜呑みにしてマウントを取り合っても無意味だ。YouTubeの動画を通しても、そういう考え方を発信しているつもりだが、皮肉にも、僕が動画を多くの人に見てもらえるのは、ほかでもない東京大学の生徒であり、それをネットで自ら喧伝してきたからだし、僕のYouTubeの視聴者は、僕をひとりの学歴モンスターとして見ることをやめない。

 

今よりも潔癖な時期の自分だったら、今の自分を、学歴を切り売りしているにも関わらず綺麗事を言うペテン野郎だと思ったかもしれない。だけど、今の自分にとって、自分の達成したい目標や伝えたいことのために自分が汚れるのは、割となんでもないことなのだ。

 

思考を一時停止することが最良の選択になるような〈思考〉があり、目の前の状況に流されていっけん非-倫理的な方へ進むことが〈倫理〉になりえることもある。

 

僕が言っているのは、何かルールを認めないと何かを主張すべきではない、的なくだらない義務論ではない。もっとシンプルな効率の話として、何かを否定するときに一番効果的なのは、その空間に深く入りこんで〈内破する〉ようなアプローチではないか、と考えているだけなのだ。

 

 

おとといTwitterで、歌人の初谷むいさんが僕の短歌を取り上げてくれた。

 

 

他人が自分の短歌で泣いた……というのに実感がわくかと言われれば微妙だが、たぶん嬉しいことな気はする。他人(しかもあこがれの先輩)に自分の作品が届いた、ということだから。

 

 

じつはこの短歌は、ネットプリントではじめて発表した時はこのような形ではなかった。

 

短歌、これくらいでいいですか?こっちも忙しいんで……
おりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃって生きてたらはちゃめちゃに光ってる夏の海

青松輝「フィクサー」/「第三滑走路」7号

 

「短歌、これくらいでいいですか?こっちも忙しいんで……」。こういう、短歌の前後にくっついた散文を「詞書(ことばがき)」という。この短歌は、詞書がついて完成の一首だったのだ。

 

この詞書にどういう意味を読み取るかは読者の皆さんに任せる。が、この詞書は、僕にとってわりと思い出深い。まず、あるネット記事をきっかけにちょっとネットで話題になった(短歌は青松輝を飽きさせてはならない|私たちの恥じらい|note)。で、それに対する反応として、この詞書じたいを何人かに「おもしろくない」と批判されたり、最終的には「こういうなめくさった詞書を書く奴を短歌はなんで飽きさせたらあかんのって思うんやけど。勝手に出てけや」「青松さんの反応は端的にダサい。」など色んなことを言われるきっかけになったからだ。

 

まあ細かいことはどうでもいいとして、自分にとって印象深い一首なのだ。気になる人はここを見るといいと思う。「短歌は青松輝を飽きさせてはならない」まとめ - Togetter

 

その後、騒動(?)をきっかけに(?)「あたらしい短歌bot」というTwitter上のbotにこの短歌は収録され、ときどきツイートされてはそこそこRTといいねを稼いでいるのを目にする。

 

 

そして今、なぜこの詞書を自分が必要としたか、ということを考える。それはやはり、自分に内蔵されている〈否定性〉からくる言葉だったのではないか。「生きてたら」、「海」が「光って」しまう。それを否定しなければいけない、という志向が自分の中に確実にあった。

 

一生懸命生きてたら海が光るなんて、くだらないよ、という身振りが、「おりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃ」「はちゃめちゃ」という言葉たちの雑さだけでは足りない、と自分に思わせ、「これくらいでいいですか」と書かせた。

 

この詞書に「こういうなめくさった詞書を書く奴」と言わせてしまったのは僕の技量とセンスの不足だが、僕はおそらく短歌をナメていたのではなかったと思う。

 

短歌のことを信じるがあまり、同時に短歌のことを疑い、否定したくなり、短歌に対して照れていた。世界や他人、友人や家族や恋人に対してもそうだった。

 

先述のbotには初出の詞書「短歌、これくらいでいいですか?」はもう入っていない。そして、詞書がない方が、この歌は他人を「泣かせる」ような気がするのだ。

 

 

 

今は、いつか出すつもりの自分の歌集には、この歌は詞書なしで載せてもいいんじゃないか、と思う。はちゃめちゃに海が光ってもいい。それに見合うくらいに生きたなら、僕たちは報われてもいいはずだ。

 

そう思える理由を訊かれれば、愛がわかるようになった、と言うしかない。愛の感覚と、自分や世界を一部で肯定することは、限りなく近いように思える。

 

 

僕はもう、何もかも否定する必要はない。もちろん駄目なものには駄目だと言っていい。だからといって全てを否定して、あれもこれも捨てて、一人になろうとする必要もない。

 

優しくならなくていい。誰かを傷つけてもいい。困っている人を無視してもいい。ルールを破ってもいい。怯えてもいい。裏切ってもいい。嫌いになってもいい。愛してもいい。

 

自分が何をしたいかを、自分で決めて、その結果を背負うことができるから、僕たちは完璧である必要がない。

 

CRAZY FOR YOUの季節が
ざわめく潮騒のようで
氷漬けの気持ちを溶かすから
海みたいに街中、光って
Base Ball Bear「CRAZY FOR YOUの季節」)