アオマツブログ

青松輝(あおまつ・あきら)。短歌・批評など。Twitter:ベテラン中学生、YouTube:ベテランち。

サマー(夢の夢の季節)

 

留年日記です。

サマー(夢の夢の季節)(2021/7/24) 青松輝

 

 

ずっと、好きな季節を訊かれたら「冬」と即答するようにしてきた。理由は簡単、夏は暑いからだ。

 

 

……。

 

本当の理由はそれだけではない。「夏」の、祝祭感、みんなが一つになる感、が、嫌いだ。夏と、夏に必須とされる、海、休暇、スポーツ、恋、旅行、お祭り、キャンプ、フェス、甲子園、どれもこれも「自分の身体」を使って「楽しむべき」な、「陽キャの」季節。

 

夏服も苦手だ。薄いTシャツを着れば、体のラインが透けないか気になるし、襟付きの半袖シャツは夏以外着れないから、良い物を探す気になれない。ポロシャツも扱いが難しい。そもそも僕が服が好きなのは、自分の身体が好きではないからで、自分の存在に自信のない人間に、夏は厳しい。

 

注意力をできるだけ散漫にして よけられない夏がこっちへ来る

青松輝「複数性について」

複数性について(短歌12首) - アオマツブログ

 

夏が来るのは避けられない。誰もが夏を「夏」として受け入れ、享受し、騒ぐ。注意力をできるだけ散漫にして。注意力散漫でなければ、夏なんて、楽しいわけがないからだ。

 

 

短歌にも、「夏の名歌」は多い。

 

あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

小野茂樹『羊雲離散』

 

「たつた一つの表情」。夏が僕たちに迫ってくる選択がある。「夏」は一個しかない。僕たちそれぞれの夏への数限りない態度と行為、しかしそれは「たつた一つ」の「夏」の表情である。「夏」に対して、どれだけ我々が距離を取ろうと、反発しようと、「数限りなき」僕たちの選択は、いつも最後に「たつた一つ」の表情になって、回収されてしまう。

 

この短歌が、「夏」の単一性や強制力をある種、無邪気に礼賛しているにも関わらず、その他の凡庸な「夏」の短歌と異なって多くの人を魅了するのは、この歌の輝きがある種のフィクショナルなものであり、極度に抽象化された「たつた一つの表情」を見せているからだろう。

 

この歌を読む人は、それぞれが完璧に自由にそれぞれの「あの夏」の「表情」をイメージできる、しかも無限に。この歌は、単に「夏」のステレオタイプを具体化し、強化するのではなくて、「夏」の構造そのものにアクセスする回路を開いている。我々に「夏」を思考する契機を与えてくれている。

 

 

あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ。夏といえば……のナンバーワンといっていいくらいの有名歌であり、いつも最終的には小野茂樹の死、あるいは恋愛、そういった単一的な物語によって語られてしまう歌。

 

にもかかわらず、この歌は、テキストレベルでは極端に抽象的で、潔癖で、冷えた書き方が選ばれている、ということを頭に入れておいた方がいいだろう。この歌を「ホットな夏の名歌」にするのも、「ロマンティックな恋の思い出」にするのも、読み手の僕たち自身である。

 

でも……。それでもまだ、僕はこの歌に完璧に賛成することはできない。ある意味でこの歌の潔癖さ、端正さが、「夏」のステレオタイプを招待するような、ずるい書き方とも言えるからだ。この歌は「潔癖な書き方」を装うことによって、僕たち読者の「夏」に対する距離感を無限に試し続けている。僕たちはどこまでいってもこの歌のせいで(=僕たち自身のせいで)小野茂樹の恋と死を、あるいは「夏」を読み取ることの欲望に誘われ続ける。それはすごく気持ち悪いことでもあるのだ。

 

でも、その、僕たちが求められる態度の複雑さが、「夏」の美しい本質を完璧に映し出している。この歌は「夏」にほぼ同化しようとしている。だから、この歌は名歌なのだろう。

 

 

今年、僕は「夏が嫌いだ」と言い続けるのをやめようと思っている。「夏」に対する多くの人の態度がポーズであるのと同様に、自分の「夏が嫌い」という態度もポーズなのではないか、と思うようになったからだ。

 

端的に言って、僕が好きな季節を「冬」だと即答する姿勢は、「夏」の持っている魔力と求心力を利用していた。「みんなが好きな夏を、あえて僕は好きじゃありません」と言っているのでは、「みんなが好きな夏を、一番好きです!」と言っているのと変わりがない。

 

単に「夏が嫌い」といって、海にも行かず、お祭りにもバーベキューにも沖縄にも行かずにきたこの23年は、間違っていたのではないか?

 

いや、間違ってても自分がよければ別にいいんだけど、今はもっと僕が、僕自身のために、僕自身の本当に好きなものと嫌いなものを見定めなければならないと、そう感じる。

 

 

夏は、世界が単一であることをいつも感じさせる。世界が単一で、みんなが同じことを話していて、同じような時間が流れる人生がたくさんある、のは心底嫌だ。

 

僕は、単一性の方よりも、複数性の方につきたい。「数かぎりなき」夏の方へ。「夏」は僕たちに関係がない。僕たちの夏が、「夏」からの距離でしか計られえないとしても、僕の夏は、「夏」と関係がない。そう主張することができると思っている。

 

きみにやっと永遠がやって来るまでのひゃくに充たない珠玉の夏の…

山中千瀬「さかなのぼうけん パート2」(『率』8号)

 

 

夏が来る。単一的な夏が。

 

夏が好きなみんなことが嫌いなわけじゃないし、きっとまた、夏は来るから、自分のなかに何か態度のようなものを持っておきたい。ただ気分的に嫌いなだけじゃなくて、自分はこうやってこの波を乗りこなすんだ、みたいな、そういう。

 

思考を停止して夏の単一性に反発することは、「夏」の力を、逆に強化するだろう。「夏」に入っていった上で、それらを自分の頭と身体で、思考して、感覚しなければいけない。海、休暇、スポーツ、恋、旅行、お祭り、キャンプ、フェス、甲子園、ぜんぶを歓迎しよう。歓迎した上で、どう感じるか、どうアクションするかは自分で決めればいい。

 

自分の身体や頭のなかを常にすべて否定して改変し続けることはできない。解像度をあえて下げること、解像度を死ぬほど上げること、そういうオンオフを繰り返し続けたい。

 

この夏、僕は僕のために、わざわざ海へ向かい、フルーツやかき氷を食べるだろう。大した理由じゃない。はたから見れば単なるミーハーでしかない。でもそれは、単純に「夏」に転んだんじゃなくて、転んだふりをしていて、夢みたいな、夏の夢を見ている、それはポエジーのポエジーオルタナティブオルタナティブ夢の夢

 

別館に用事があるって本館でずっと喋っていた夏の夢

中山俊一「誕生日」(『ねむらない樹』vol.3)

 

夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう

穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

 

薔薇園にあなたが立っているさまをゆめみてそのあとの夏の朝

佐々木朔「そのあとの」(『羽根と根』9号)