アオマツブログ

青松輝(あおまつ・あきら)。短歌・批評など。Twitter:ベテラン中学生、YouTube:ベテランち。

M1を見て お笑いと短歌の「おもしろさ」

 

 

M1を見た まずM1の感想

 

M1グランプリを見ました。今回の文章はM1の話と短歌の話を絡めて、短歌とお笑いにとって面白さとは何かという話になっているので、お笑い好きな人に短歌の面白さに触れるきっかけになればいいなと思ってます。最後の方に自分語りもちょっとあるので、自分の読みたいところだけ読んでみてください。(短歌:5・7・5・7・7のやつです。季語不要のやつ。ジジくさくない短歌をやっている人もいっぱいいます。面白いのでおすすめ。アルファツイッタラーでもやってる人多い。mannさん(@mann_tann)とか、ひつじのあゆみさんとか。)

 

Ⅿ1毎年面白いんですけど、今年もすごい面白かった。小学生並みですが。今年たまたまYoutubeで「霜降り明星のパパユパユパユ」(Youtube番組)とか「霜降り明星のだましうち!」(ラジオ)をちょいちょい見てて、せいやが市役所に行っててラジオの収録に20分遅刻してどうこう、みたいなこと言うてたのに今日から全国ネット出まくってるんや…と思うとなんか、すごいですね。「人生変わる」ってクソ陳腐と見せかけてクソ熱い。M1グランプリが無かったら僕そんなに漫才好きじゃなかったかもしれないんですよね。大会ってやっぱり良い。

 

ネタで印象に残ったのは

①和牛の二本目の構成、いきなり電話始まるのと二回目の電話のコントに入るの、なんで?と思ってたら、どんどん騙しあうくだりになって、最後なんか顔のアップになって爆笑してしまった。なんか何にウケてるのかわからない感じがありました。一本目もめちゃくちゃ好きだった。「いや、殺す殺す。」っていうワードが川西からポンポン出るのが普通みたいになってるのがすごいおもしろい。

スーパーマラドーナの「一番大事なステージやねん」っていうくだりが、ガチでそうなのをわかってるからボケてるんじゃない?ってなってなんか不思議な感じがしました。それで会場もなんか(?)ってなってたのが、これ、武智が「大事なステージやねん」って言いたかったんやろうなあ、みたいなw

③個人的にかまいたちのネタは、途中から濱家が間違え始めるのはどうなんかな?と思ってしまった。なんというか、「人が書いたネタだ、」ということに気づいてしまうというか。かといってそうしないとネタの展開が無くなるから難しいけど。

霜降り明星のネタ、毎年見てるから普通な気がするだけで改めてみるとめちゃくちゃおもしろい。一個一個全部おもしろい。一昨年くらいから同じくらい完成度は高かったのに決勝行った瞬間大爆発して優勝って、M1やばいなぁ。

 

 

お笑いと短歌の「おもしろさ」

 

ネタの話はこれくらいにして、本題に入ります。お笑いと短歌の話です。もともと僕はお笑い芸人になれるものだったらなりたいんですが、何故か色々あって最近は短歌に熱中していて、いろいろ比較して考えていて。

 

特に最近短歌をやっていて考えているのが、おもしろさって①「既存の体系を少しずらす」っていう方向性と、②「新しい未知の体系を提示する」っていう方向性に分かれるんじゃないかっていうことなんですね。

 

①「既存の体系を少しずらす」でいうと、今年のM1だったら霜降り明星のネタはそれを高速で高精度でやっているイメージ。見取り図も比較的そうですかね。割とよくあるお笑いのイメージだと思ってください。

図式化すると、A→BをA→Cに変える、ということですね。校長室の銅像に対して「いや銅像がメシ時の描写するかあ!」がそれです。

②「新しい体系を提示する」でいえば、ジャルジャル、トム・ブラウンが代表例ですかね。そもそもの前提となる秩序が現実とかけ離れている。A→Bに対してC→Dをイメージしてもらえればいいです。中島君5人が合体(なにそれ?)して中島みゆきができる(存在感強いから、って何?)ってこと。

 

②の「新しい体系」とは何かをもう少し細かく説明すると、「ツッコミどころが一か所におさまらない」という定義が一番スマートかもしれない。マヂカルラブリーもそうかな。トム・ブラウンの紹介が「無秩序」でしたけど、あれはむしろ逆で、トムブラウンの中のルールを楽しむ、みたいな側面が大きいわけですよね。休止前のM1でいえば笑い飯の「鳥人」「マリリンモンロー」、POISON GIRL BAND「中日」とか。

 

短歌で①と②を高いレベルで実現していると感じる人をそれぞれあげると、

 

①「既存の体系のずらし」では最近の人で言うと木下龍也とか、伊波真人とか。(短歌の霜降り明星だと思ってください。)

 

つむじ風、ここにあります 菓子パンの袋がそっと教えてくれる

雑踏の中でゆっくりしゃがみこみほどけた蝶を生き返らせる

鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい

(木下龍也「つむじ風、ここにあります」)

 

自転車のヘッドライトの光線は闇から闇へ渡す架け橋

区切りとし人はたばねるものなのかたとえば雨傘、カーテン、花束

猫よけのペットボトルは人間の一日分の水を満たして

(伊波真人「ナイトフライト」)

 

②「未知の体系」では我妻俊樹。

(短歌のトム・ブラウンです)

 

思いましょう 世界は果てが滝なのに減らないくらい海に降る雨

読みかけのトラベルミステリーにあふれてた夏の光をすれ違うバス

わたしたちの偶然の箱根旅行 つないだままの手がひろわれて

(我妻俊樹「足の踏み場、象の墓場」)

 

 

伊舎堂仁には割と両方あるイメージ。

①「ずらす」

いしゃどうに会わせたい人がいないんだ ぜひ会わないでみてくれないか

先生 すべて表示をクリックですべてが表示されたんですけど

②「未知の体系」

ありがとう ナンバープレートを照らす光 おめでとう それを知るまでの日々

鳴らすべきときに絶対指が鳴るから主人公なんだろう カッ

(伊舎堂仁「トントングラム」)

 

 

 

二種類のおもしろさと「いま」

 

こうやって比べると、①と②は明確には区別できなくて、程度の違いが大きいんですけど、最近僕は特に短歌において、②の方に惹かれる感覚があって。②の方が1発のパワーが大きいと思っているんですね。

 

読みかけのトラベルミステリーにあふれてた夏の光をすれ違うバス

の、あ、バス、が、すれ違うんだ、っていうことを認識させられる奇妙なパワー。つまりM1でいえば「ナカジマックス!!!!」「やったーーー!!!!」の時の、できるのかよ、っていう奇妙な笑い。

 

ただし②は、その体系そのものがおかしい、ということを認識するのに、お笑いならお笑い、短歌なら短歌のリテラシーが高くないと、この「ずらし」の具合は異常だ、というのをあまり感知できない。読みかけのトラベルミステリーの光、と、もっとうまくハマるもの(たとえば恋人の指でもいい)を見飽きたからこそ「バス」が輝いてくる。

 

①に慣れてるから②がおもしろいという節がある。つまり共感性が低い。ここで②の「新しい体系」に大事なのが、ボケ(おかしい部分)が複数あるだけじゃなくて、それらが何故か整然と両立しているっていうことだと思うんですね。それが納得感につながる。(たとえば今年の予選のDrハインリッヒとかはそれが成功したから今年ハネた。コウテイは不条理さを「ハイテンションな漫才」という既存の文脈を利用して補ってるんじゃないか。)

 

①と②はどちらが偉い、というものでは絶対にないんですが、②の方をより認める流れがあるような気がします。


これは最近伊舎堂さん
(短歌の界隈ではわりと有名な、若手エースのひとり、みたいな立ち位置の歌人。僕がめっちゃ好きなことでおなじみ。歌集

https://www.amazon.co.jp/トントングラム-新鋭短歌シリーズ18-伊舎堂-仁/dp/4863851685

出てます。お笑い好きの人はおすすめです。)

のnote

note.mu


で書いていた
「現行の「お笑い」において最も強い出力をほこる虹の黄昏ハリウッドザコシショウ街裏ぴんく三者(ここに「通り過ぎてしまった4番手」として、サンシャイン池崎が続くかもしれない)は、自らが〈異物〉であったり、〈異常事態〉の当事者であったりすることを引き受けるところから、その表現を開始している。これらの要素は全て、「距離をとる」態度とは無縁のところにある。」

 


っていうのにも近いところがあるんですけど、徐々に「自分がメタの住人である」ことのカタルシスより「全く理解できないものの異常さを否定しない、楽しむ」という方に社会的なムードもシフトしていってるんじゃないか。それは社会的にどんどん多様性、他人を傷つける暴力性、みたいなものがSNSとか、フェミニズムの運動によって可視化されていっていることからきているんじゃないか。と強く感じます。

 

つまり「新しい体系」は既存のマイノリティの否定にならない。ゆえに、変な人を馬鹿にすることの傷(お笑いで言えばまさにダウンタウンの時代から王権を握り続けてきたスタイル、が近頃逃れられない古さ)から脱せている。(アジアン隅田が「もうブスって言われたくない」って泣いた、みたいな件ありましたよね。)逆に金属バットの口の悪さの面白さとは、そこの「他人の変さを馬鹿にする楽しみ」と同時に、悪口を言う金属バット自身の戯画化、が起こっているからなんじゃないか。

 

今をときめく千鳥の -奇しくも「昔のダウンタウンを思い出す」という声がもっとも聞かれるコンビ- お笑いが、松本のお笑いと比べて明らかに他人に対して優しいのもそういう社会の流れに乗っているところが絶対にある。自分たちのくだりに自分たちで「一番おもろうない!」と言う、「○○な話」などで他人のエピソードトークにいちゃもんをつけてきた松本の変奏。「相席食堂」で、「ちょっと待てぇ~」とロケのおかしい部分を指摘するという「一歩引き」「ずれの指摘」。その後の片方がロケタレントをいじると必ずもう片方がフォローする、嫌みのなさ。自分たちが「変」を演じて、それを楽しむ姿勢。

 

ただしネタ以外のジャンル、トークとかロケ(現実社会そのものと接続せざるを得ない)で②はできないわけで、千鳥の今のトークのスタイルは極限まで嫌味をそぎ落とされて、精度の高い①の形なんだと思います。松本の子供たちの、現代的な一種の完成形なんじゃないか。ということをM1が始まる前から、今にかけて徐々に考えていました。で、それをM1で思い出したからこの記事はできました。

 

 

内容の話が終わって じゃあどうするんだ

 

ここからは自分語りです。すいません。色々お笑いと短歌について長々と語ってきましたけど、一番強く、M1を見てどうしても思わざるをえないのは「じゃあ、自分は何ができるのか」っていうことで。東大に入って「お笑いじゃ食えないからな」と思ってお笑いはやらないでいたら、気づいたらお笑いより百万倍食えない(というか食えてる奴はほぼ存在しない)短歌という極細ジャンルの一員になってしまってた。

 

三か月かけて作った同人誌は200部しか売れない。(そのうち各地の書店に郵送するので、よかったらフォローして情報チェックしてみてください)

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ネットプリントは30部しか印刷してもらえない(無料なのに)。(こっちのツイッターもよろしくお願いします)

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こんなこというとかっこ悪いから誰も言わないですけど、なんでM1はこんなにすごいのに、何かできるはずなのに、今の俺こんな感じなんかなって思ったんですよね。みんな大なり小なりすこしは思ったんじゃないですか?M1グランプリで。違いますか?

 

わざわざ東大まで来て、まともに大学生活は送れずに、留年して、「勉強できるだけ」じゃ嫌だ、っていうエゴのためにくすぶってる毎日で、ここからどうにかなれるのか?そもそもどうにかなりたい、のか?短歌ばっかりで20歳が終わる、霜降り明星は26歳でM1に優勝した。俺は大学を卒業するのが最速で25歳。俺は、なんか、できんのか?

 

俺はどうするんだ?

 

う~ん…。

 

わかんない、です。けど、短歌は好きなので続けます。

 

死ぬまでになんかできるようになりたい。誰かに、大きいパンチを食らわせたい、別に短歌でもいいし、短歌じゃなくてもいいし、なんかできたら死んでもいい、まではいかないけど

 

 

 

あとすこしだけ斜にかまえさせてよ、ねえ あごが2つになったらやめるよ

 (伊舎堂仁「トントングラム」)

 

 

 

(2018 12/4)