アオマツブログ

青松輝(あおまつ・あきら)。短歌・批評など。Twitter:ベテラン中学生、YouTube:ベテランち。

【歌論】佐久間慧と「人称派」

 

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帰省してから三日経つものの、9時くらいに寝て→18時くらいに起きて、を繰り返してる。この三日間、ゲームのなかで160キロの球を投げて三振を取る、のを繰り返してて、メルカリで買った詩の本が6冊くらい溜まってるのに全く読めていない。飲みにいってくれる人とか探してます。最近短歌に飽きて現代詩にハマっており、何でもすぐハマったり飽きたりしてしまうのは悪いところだなと思っているのでどうにかしたい。

 

以上ちょっとした近況報告でした。
前からずっと興味を持って読んでいる歌人に佐久間慧がいて、その作品についてちょっと書きたい。

 

以下引用は基本的にわせたん、TOMのサイトから。 

 


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佐久間慧は僕がさいきん一番好きな歌人で、猛プッシュしたいのに、現在唯一の活動場所と思われる「TOM」の更新が滞ってて悲しい。

 

TOM

 

もともと早稲田短歌会にいた人。まず少し作品を貼ってみる。

 

そう、その日のローソンはひどく凪いでいて、僕は朝を手にレジへ向かった
犬のほうがグルミットだよ マグカップからずいぶんと湯気が出ている
そういう考え方もあると思うし否定はしないけど葱も買う
右に君、左に知らない人がいて 知らない人の読んでいる本
晩年は神秘主義へと陥った僕のほうから伝えておくね
(佐久間慧「風も吹く」/早稲田短歌40号)

 

この5首連作、たぶん大学1年生で書いてると思われるが、かなりすごすぎる。ふつうは初期の作品って味が単調になるというか、「こういうの作りたいんだね」ってのがわかりやすくなりがちだと思うけど、この5首はすでに形容しがたい独特の味がある。簡単に喩えると永井祐の文体+五島諭の知的さ+望月裕二郎の不思議さ、みたいになるかもしれないけど。

 

一首目の韻律、「そう、その日の/ローソンはひどく/凪いでいて/僕は朝を手に/レジへ向かった」の、散文性と短歌っぽさの間で揺らぐ感覚、と、内容の意味不明な清潔感。そう、その日のローソンはひどく○○で、僕は○○を手にレジへ向かった、という元の文をそのまま置き換えることで作られた文章のようでありつつ、意味が微妙に通るような不思議な感じ。

 

「そういう考え方もあると思うし否定はしないけど葱も買う」「晩年は神秘主義へと陥った僕のほうから伝えておくね」の二首は一部では有名だと思うけど、読めば読むほど面白い。「葱も買う」「僕の方から伝えておくね」で、いきなり作中の主体がぶれさせられるのは、短歌という形式に対する批評、コンセプチュアルさがある。と同時に「葱」「神秘主義」のツルツルとした名詞としての面白さもあって一首が立っている。でも全体的な文体には爽やかさと理知的さがあって、口語による青春歌の新たな形を見せている気がする。

 

佐久間慧の歌は、「早稲田短歌」シリーズ全体では
40号:「風も吹く」5首、「anyway」12首
41号:「接近はするがしかし重ならない」12首
42号:「応用芸術」5首
43号:「さらにラジカルに何もしない」12首
に掲載されている。

http:// http://wasedatanka.web.fc2.com/wasedatankaweb/index.html

 

それ以外に同人誌「はならび」でも歌を出していて、そっちは1号~5号まで出てるけどどれも入手困難になっている。僕は3号と4号を葉ね文庫という大阪の書店でたまたま古本で買えたので持っているけど、もっと手に入りやすくなるといいなあ。

http:// https://twitter.com/hanarabitanka

 

(6月24日追記:

上記以外の既発表作品では

はならび1号:「ナラティヴ」5首

はならび2号:「オートポイエーシス」5首

はならび3号:「コンパクト・カルチャー」10首

はならび4号:「binary」10首

はならび5号:「still/scape」10首

「率」フリーペーパー集:「solution」10首

が確認できています。そのほか、短歌研究新人賞の最終候補になったり、短歌新聞系の媒体に寄稿したりしているみたいです。そちらも確認したら書いておきます。)

 

 

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なんでこんなに凄い歌作ってるのにもっとたくさん歌を発表してないんだ、と半年くらい半分怒りながら思ってたけど、最近は、作り方がコンセプチュアルすぎて(基本的に作中主体の存在、人称をぶれさせる、という作り方は意識してやってたと思う。)たくさん作れなかったのかなという気がしている。

 

AならばBでありかつBならばAであるとき あれは彗星?
(「接近はするがしかし重ならない」)
2.で「はい」と答えた方にお聞きします。いいえと答えたのでとばします
(「anyway」)

 

この歌の前半部分みたいなのって、作り方的にはお題を持ってきてそれに合わせて後半の言葉をいじる、って感じだから簡単に作れる感じに見えるけど、意外と作ってみるとちょうどいいものを見つけるのも、その後を歌として調整するのも難しくて結構難儀する。最近、出したネットプリント

 

ヒント1:式の対称性に注意 ヒント2:飛行機だ 近くない?
・はい・いいえ・どちらでもない・しっかりと気持ちを汲み取りたい・盗みたい
(青松輝「予告編」/「第三滑走路」4号)

 

っていう、佐久間慧、新上達也を意識して作った二首を出して両方そこそこ好評だったけど、今思うと目的意識だけじゃなくて歌のモチーフそのものも佐久間慧のパクりっぽくなっちゃってる。この二首を作るだけでも結構大変だったことを思うと、50首とかこの感じで作るのはやっぱり厳しかったのかなという感じもある。連作って難しい。


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ここまで書いて思い出したけど、一人称をぶれさせた歌の話では、
わせたん40号の瀬戸夏子の斉藤斎藤の歌への一首評で

 

アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました
斉藤斎藤

 

という歌に
「この人はあまり信じられないなと思ってしまう。斉藤斎藤という人はあまり信じられないなと思ってしまう。 この一首は。理不尽な話かもしれない。」という一節がある。この歌は作り方として、というか提示されかたとして佐久間慧の歌に近い。パロディを使った短歌がすべてもっている特質なのかもしれないけど。(佐久間の歌は一首の中に二種類あって歌のなかで視点の移動がある、という点で差はあるけど。)

 

瀬戸が言っている「信じられない」というのはつまり、

作者(作中主体)→歌←読み手

という、基本的には作中主体(歌の言葉を言った人)が作者の一部である、という普通な読み方が通用しない、というところにあるんだと思う。

 

つまりこの歌の言葉は、作者の一部(ペルソナみたいな)が放った「うた」「本気の言葉」、というラインをはるかに超えた、作者が読者を困惑させたり感動させたりするための言語的な構造物のようになっている、というか。こういう作品が生まれてくる流れを例えれば、作者が目で見たものを描いていた絵画や彫刻から、レディメイドであったり、ミニマルアートとかコンセプチュアルアートみたいなものが出てくる流れというか。(勝手な印象では「晩年は神秘主義へと陥った僕の方から伝えておくね」あたりの露骨なコンセプトを感じさせる歌はコスースの「一つと三つの椅子」みたいな感じがする。)

コンセプチュアル・アート「アイデア芸術」 - Artpedia / わかる、近代美術と現代美術

 


瀬戸は同じ評で「斉藤はしばしば既成の表現を流し込むかのように定型に落としいれる。しかしそれらが単なる紋切り型の表現や、アジテーションプロパガンダといった通りいっぺんの言語をすりぬけているのは、たとえば、その(歌人にしては)風変わりな名前の持っているような、奇妙な二重の社会性からの発語という場を選んでいることにあるのではないか。…」と言っているが、たぶん佐久間や斎藤は、

作者が歌う→歌ができる→それを誰かが読む

 という構造が嘘だと思ってしまうんだと思う。作者は常に「この歌が届くとき、読者の琴線にこういう風にすれば触れるかもしれない」みたいな算段をつけている、にも関わらず、まるで「心底そう思った」かのように提示される歌の気持ち悪さを穿ってしまう。

 

いつまでも空があかるい町に住む 眠れない夜を買いだめしよう
ひんやりとお米に指を沈ませてふとくちずさむ遠雷の夜
(山階基「徒歩圏」/早稲田短歌40号)


わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる
(永井祐「日本の中でたのしく暮らす」)

 

どれも良い歌だし、短歌というのは基本的にこういう「目の前のステキさ」のシェアが魅力だと思う。だからこそ、こういう歌の、もしくは短歌という形式の、「目の前のステキさ」を受け取るとき。僕は必要以上に勘ぐってしまう性格だから、常に歌の背後にある「これをステキでしょ、と思ってシェアする作者の欲望」みたいなものを直観的に感じている。「口ずさむ」ことにしたくなったんだろうな。この人にとって「おしゃれではなく」っていうのがかっこいい生き方なんだろうな。それは常に、短歌というものが一人称の地平から発されている限り、作中主体のリアルな言葉が作者の内部に包摂されている限り、避けようがない。なぜならそれは社会での人間関係を行ったときに付随するものと全く相似形をなしているから。たぶん佐久間慧もその「気持ち悪さ」にたいする感覚があるんじゃないか。

 

「この歌をだれがどのような意図で作っているのか」ということを敏感に察知してしまうから、佐久間慧はたぶんそこをブレさせたくなって、濁したくなって、こういう歌ができてしまう。

 

僕は幾度となくそれを誤記して、訂正して、お詫びします。
(「応用芸術」)

 

これをどういう立場の誰が言っているのかわからないし、わかる必要もないだろう、ということは読者にすぐに伝わっている。だから読者は「作者が」「ここにこの言葉を置いた」ことをシンプルに楽しめばいい。徹底的な押しつけがましさの排除がそこにある。(ただし、そこで、意味不明なコンセプチュアルな歌を提示する作者の意識、というものは結局亡霊のように付きまとう…それが短歌という形式の怖さであり面白さになっているのかもしれない)

 

そういう考え方もあると思うし否定はしないけど葱も買う
(「風も吹く」)

 

否定はしない。その上で「葱も買う」ことの面白さだけを読者の僕は味わえばいいから心地よい。


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たぶん佐久間慧はかなり永井祐の影響を受けている。じっさいわせたん一年目の機関誌(「早稲田短歌」40号)に永井祐の一首評を書いてるし。

 

 

テーブルの隅のグラスを内側に寄せてもう一度聞き返す
始まってから来た人も少しいてその人たちが開けるドアの音
(「anyway」)
の文体の平熱さ、自分のいるところから一歩も動かない書き方。「ドアの音」へのフォーカスの絞り方。

 

昔より今は長生き TSUTAYAにはソープ・オペラの棚が一列
(「接近はするがしかし重ならない」)
の、日々の楽しさ感としての「TSUTAYA」の使い方。

 

ただ全体としての独特のツルっとした感じ、清潔感、若さの感じは永井にはない。より頭の中で起こった概念的な出来事、という感じがある。永井祐って特に最近の歌は生活感のもたらすおもしろさ、みたいなテーマもある気がするからそこはちょっと違うけど、文体としてのクリティカルさだけ奪って新たな境地でやっている感じがある。

 

永井祐リスペクトの歌人ってかなり多い気がして、今の(特に学生短歌あがりの歌人が)リアリズムっぽく書くときに、永井祐をどうやって超えるか、ってかなり難しい問題で、最近笹井賞で永井賞を取った阿波野巧也さんとか、水沼朔太郎さんとか、相田奈緒さんとか、影響されてそうな人は結構思いつく。それだけ文体として今の世の中を刺すのに有効だってことだろう。

 

で、佐久間慧は確実に永井祐の一歩先を行けてるな、と感じて、そこが「なんたる星」のはだしさんと並んで二人を僕がすごく推している要因になってる。自分としても、作るとき、読むときにつねに永井祐の影をいろんなところに発見してしまうからこそ、永井祐以降、までいけてると感動しちゃうというか。

 


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で、ここまでメインに話してきたのは佐久間慧の「一人称のぶれさせ方」っていう、たぶん一般的な佐久間慧の一番目立つ特徴の話だけど、最近はより文体のクリティカルさが売りになってきてて、

 

それは二十世紀を通じての潮流でしたがまもなく離陸いたします

 

っていう歌はかなり初期の佐久間慧の代表歌でありながら、同時に佐久間慧の歌の未来を暗示してるような感じがする。コラージュ的な、露骨な引用を使った「ぶれさせる」っていう行為は平面的、デジタルな読み味になる。

 

Smoking kills. Smokers die younger. Smoking harms you and others.
(吉田恭大「光と私語」/早稲田短歌41号)


っていう歌よりも、


喫煙は、あなたにとって高めます。より強めます。ひとつとなります。
(新上達也「葱畑」/早稲田短歌43号)


の方が「ひとつとなります」の分だけ読み味が立体的になるというか。どっちがより良いって話ではないけど。つまり読んだ時に読者がフォーカスするべきおもしろさが、「既存の定型文の引用」以外に用意されている方が味が複雑になる。

 

たぶんこの「一人称のブレさせ方」っていうテーマは、今の二首であげた吉田恭大、新上達也とは共有していた問題意識なんだろうなと思っていて、本当ならその二人とか、他の早稲田短歌の同時期のメンバーと比較して論じたいけど僕のスタミナ上いったん棚上げしたい。個人的にはこの三人を僕は勝手にまとめて「人称派」と命名して呼んでいる。吉田さんの歌集楽しみ。

 

日めくりの尽きて明日も風力2、あるいは3を数えるだろう
(吉田恭大「Not in service」/早稲田短歌41号)
わたしたちは一人称の攪乱でできた隙間を縫って海辺へ
(新上達也『葱畑』/「早稲田短歌」43号)

 

「一人称の攪乱」って自分で言ってる…!っていう…

 

最近「ねむらない樹」の一号の「未来に残したい短歌100」みたいなのに

 

アップデート後に再起動が必要です[行う][冬の夜に行う]
(新上達也「冬の動画」/「穀物」4号)

 

っていう歌が入ってたけど、背景にはこういう共有されてたテーマがあると思っている。で、三人にはもちろん三人それぞれの持ち味があって、佐久間慧の場合は

 

それは二十世紀を通じての潮流でしたがまもなく離陸いたします

 

離陸した先に「TOM」での佐クマサトシ名義での、文体と雰囲気だけですごいキレを出せる最近の歌がある。

 

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https://tomtanka.tumblr.com/post/169108542141/vignette

tomtanka.tumblr.com

 

初級をクリアして次は中級へ 中級は最初は難しい 
薬 薬という薬局の看板光っている それを避ける
クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ
もう死んでしまった鳩が横たわり肯定的に描かれている
私はこれまでに流れ星を見たことがあるような気がします
(佐クマサトシ『vignette』/TOM)

 

もう僕は、露骨な引用なんかしなくても文体とモチーフだけで、初期の頃目指していたような独特の清潔感、雰囲気を出せるんだぞ、と歌が語っている。そこで助けになっているのはより正確に研ぎ澄まされた、散文化しつつも短歌として形を保つ韻律の感覚だ。

 

AならばBでありかつBならばAであるとき あれは彗星?

 

という歌を作った作者が、5年以上の時を経て

 

私はこれまでに流れ星を見たことがあるような気がします

 

という歌を作ることに、同じ作者の中の作風の変化と時間の経過を感じて感傷的になってしまう。なんというか最近の佐クマの歌はフリースタイルダンジョンのFORKみたいな感じがある。強者が力を抜いてることで醸し出すキレキレ感というか。

 

これ以上話して今の佐クマサトシを純粋に楽しむ機会をあまり奪いたくないので、引用はこれくらいで終わりにしたいと思う。現況の佐クマの歌が昔とどう違ってどう良いのか、っていう話は今後機会があればまた書きたい。とりあえずリンクから読んでみてほしい。

 

http://wasedatanka.web.fc2.com/wasedatankaweb/index.html

TOM


愛と画像。段ボール箱開けるとき使う力が私から出る
(佐クマサトシ『内容だけのものが動いている』/TOM)

 

「TOM」は最近更新が止まってるけど、もっと「使う力が私から出る」のを見たい。というか短歌の業界、こういうすごい作者がたくさん埋もれてるのに、月刊の商業短歌雑誌とかにしょうもなめの作品いっぱい載せてて反省したりせんのかな?みんな短歌のことそんなに好きじゃないんかな。悲しい。

 


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久しぶりに真面目に文章を書いて疲れました。前回のブログがせっかくチョイバズりしたのに時間空けちゃって失敗したな。これからはもっと更新していきたい。来週から学生短歌会の合同合宿があってかなり楽しみ。短歌のことを好きな人といっぱい出会いたい。合宿に合わせてネットプリントを出す予定なので印刷とかツイッターのフォローとかよろしくお願いします。

 

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